1975年7月30日初版(定価450円)サンリオ出版
目次
十五歳の詩集
- 世界で一番遠い土地へ
- 時には母のない子のように
- かなしみ
- 何にでも値段をつける古道具屋のおじさんの話
- 赤とんぼ
- 作品1番
- お月さましか話し相手がいなかったら
- 劇場
- 髪
- 翼について
まだ思い出だった頃
- 忘却
- みじかい別れのスケッチ
- 引き算
- 思い出すために
- 赤づきん
- 十一月の思い出
- 作品Ⅱ番
- 時は過ぎゆく
- 作品Ⅲ番
愛さないの愛せないの
- カウボーイ・ポップ
- しみのあるラプソディー
- 愛する
- 汽車
- 友だち
- ジゴロになりたい
- ぼくのマリー
- 口
- 輪舞
私のイソップ
解説(別役実)
巻末の解説は同じ劇作家の別役実氏によるもの。寺山修司の「詩」「メルヘン」に関しての別役氏らしい分析は、寺山ワールドの根源にあるものを指摘していると思います。抜粋せず、全文を記載します。
『解説』 別役実
寺山修司氏の詩に使われている言葉は、たいていありふれた、いつもその辺でお目にかかっているものばかりなのだが、それを氏がピンセットでつまんで、氏特有の「詩」という装置に仕掛けると、とたんにその言葉が本来持っている最もナイーブなものが、私達の前に開けてくるような気がする。それはたとえば、野の草花ばかりを扱う、腕のいい生花の仕事に似ているかもしれない。氏はその草花を、何事かのために奉仕させるのではなく、生花という装置を通じて、それが既に内包しているものを、ただ見出そうとするのである。
ドラマは、言葉それ自体の内に、深く内蔵されている。ただそれは、長い間の私達の酷使から自らを保護すべく、硬い表皮で幾重にもおおわれているのである。つまり、氏の「詩」という装置は、この硬い表皮を一枚一枚はぎとってゆき、その内奥に眠る最もやわらかな実質を、私達の目の前に解き放つためのものに他ならない。
『一本の樹は、歴史ではなく、思い出である。一羽の鳥は、記憶ではなくて、愛である。一人の誕生は、経験ではなくて、物語である』と、氏は言う。怒らくこの場合、歴史であり記憶であり経験であるものを、思い出であり愛であり物語であるものに、言い換えること自体に意味があるのではない。ただそう言い換える作業を通じて、一本の樹であり、一羽の鳥であり、一人の人間であるものの内奥に眠る、あらゆる言葉をこえた、やわらかな或る実質を、言い当てようとしているのである。言ってみれば、思い出も愛も物語も、全てはこれを言い当てるための仕掛けのひとつに過ぎない。私達は、一本の樹が思い出であることを知って感動するのではなく、一本の樹がまさしく一本の樹であることを知って感動するのである。
このように、私は氏の作業が、感覚的なものというよりは、ひどくメカニックなものである、という気がしてならないのである。