チェホフ祭

初期短篇 チェホフ祭


マッチ擦るつかのまの海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや

一粒の向日葵の種まきしのみに荒野をわれの処女地と呼びき

そら豆の殻一せいに鳴る夕母につながるわれのソネット

胸病みて小鳥のごとき恋を欲る理科学生とこの頃したし

草の笛吹くを切なく聞きており告白以前の愛とは何ぞ

とびやすき葡萄の汁で汚すなかれ虐げられし少年の詩を

わが撃ちし鳥は拾わで帰るなりもはや飛ばざるものは妬まぬ

吊されて玉葱芽ぐむ納屋ふかくツルゲエネフをはじめて読みき

ころがりしカンカン帽を追うごとくふるさとの道駈けて帰らん

雲雀の血すこしにじみしわがシャツに時経てもなおさみしき凱歌

一つかみほど苜蓿うつる水青年の胸は縦の拭くべし

俘虜の日の歩幅たもちし彼ならむ青麦踏むをしずかにはやく

すこしの血のにじみし壁のアジア地図もわれも揺らる汽車通るたび

チェホフ祭のビラのはられて林檎の木かすかに揺るる汽車過ぐるたび

父の遺産のなかに数えむ夕焼はさむざむとどの時よりも見ゆ

胸病めばわが谷緑ふかからむスケッチブック閉じて眠れど

すでに亡き父への葉書一枚もち冬田を超えて来し郵便夫

桃いれし籠に頬髭おしつけてチェホフの日の電車に揺らる

煙草くさき国語教師が言うときに明日という語は最もかなし

うしろ手に墜ちし雲雀をにぎりしめ君のピアノを窓より覗く

わが通る果樹園の小屋いつも暗く父と呼びたき番人が棲む

ふるさとの訛りなくせし友といてモカ珈琲はかくまでにがし

勝ちながら冬のマラソン一人ゆく町の真上の日曇りおり

海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり

転向後も麦藁帽子のきみのため村のもっとも低き場所萌ゆ

やがて海へ出る夏の川あかるくてわれは映されながら沿いゆく

蝶追いし上級生の寝室にしばらく立てり陽の匂いして

北へはしる鉄路に立てば胸いづるトロイカもすぐわれを捨てゆく

罐に飼うメダカに日ざしさしながら田舎教師の友は留守なり

すぐ軋む木のわがベッドあおむけに記憶を生かす鰯雲あり

ある日わが貶しめたりし天人のため蜥蜴は背中かわきて泳ぐ

うしろ手に春の嵐のドアとざし青年はすでにけだものくさき

晩夏光かげりつつ過ぐ死火山を見ていてわれに父の血めざむ

遠く来て毛皮をふんで目の前の青年よわが胸うちたからん

夾竹桃吹きて校舎に暗さあり饒舌の母のひそかににくむ

誰か死ねり口笛吹いて炎天の街をころがしゆく樽一つ

刑務所の消燈時間遠く見て一本の根をぬくき終るなり

製粉所に帽子忘れてきしことをふと思い出づ川に沿いつつ

ラグビーの頬傷は野で癒ゆるべし自由をすでに怖じぬわれらに

ぬれやすき頬を火山の霧はしりあこがれ遂げず来し真夏の死

夏蝶の屍をひきてゆく蟻一匹どこまでもゆけどわが影を出ず

胸にひらく海の花火を見てかえりひとりの鍵を音たてて挿す

わが内の少年かえらざる夜を秋菜煮ており頬をよごして

サ・セ・パリも悲歌にかぞえむ酔いどれの少年と一つのマントのなかに

外套を着れば失うなかにあり豆煮る灯などに照らされて

冬の斧たてかけてある壁にさし陽は強まれり家継ぐべしや

墓買いに来し冬の町新しきわれの帽子を映す玻璃あり

口あけて孤児は眠れり黒パンの屑ちらかりている明るさに

地下水道をいま通りゆく暗き水のなかにまぎれて叫ぶ種子あり

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