1985年2月15日初版(定価1300円)新書館/装幀:宇野亜喜良
寺山修司の死後、新書館の勧めで母・寺山はつが書き残した寺山修司です。
「なるほど母親というものはこういうものなのかと胸をつかれた。なにをどう語ろうと、かけがえのない寺山さんの夭逝を惜しむ気持ちがあふれていて、母の語る寺山修司は終始魅力的であった」というのは山田太一の評です。本編は、第一章から第四章で、彼女が寺山修司を産んでから亡くなるまでの回想文。中学、高校時代の手紙と作品。「青いサンダル」「電話」「母」と題したエピソードの「螢火抄」の3つで構成されています。
母から見た寺山修司は、まさに彼の残した作品群を通しては見られなかった彼でした。しかし、ここには母による寺山修司は描かれているものの、決して寺山はつ自身が描かれているわけではありません。息子は作品の中で、時には母を殺し、母を放火魔にし、母に駆け落ちさせてきました。小生にとって、寺山修司本人よりも、むしろ母・寺山はつのほうが、いまでも謎めいています。
表紙をめくると、
母の螢捨てにゆく顔照らされて 修司
という句が記されています。
この書籍には、幼・少年期を中心に寺山修司の白黒写真が20点ほど掲載されています。
第一章
昭和十年十二月十日。
陣痛がはじまったのが、その三日前からでした。今夜あたり産まれるかもしれないと言われたがその夜は産まれず、明日の朝かなと言われたがやっぱり駄目で、やっと三日目の夜、八時頃、難産のすえ産まれたのです。
(中略)
小学生と中学生のお嬢さんが二人いまして、私が診察するあいだ連れてきた修ちゃんは、このお嬢さんたちにいつも遊んでもらっていました。修ちゃんはこの二人を、赤いお姉さんと青いお姉さんと呼んでいました。院長先生がこれを見て、「修司ちゃんは、なかなか詩人だね」と言われました。これが、修ちゃんが詩人と言われた最初なのです。三歳でした。
母の蛍の「あとがき」
私はよく修ちゃんのファンの方たちに、「寺山さんは子供の頃どんな子でした?」と聞かれました。また「寺山さんにお母さんがいたんですか?」とも言われました。それから、「寺山さんはほんとうはどこで生まれたんですか?」と聞かれたこともあります。
あの人は自分をモデルにしたり、私をモデルにして、いろいろフィクションで書いているので、どれが真実で、どれがフィクションなのかまるでわからない、謎の人になっているようです。
真実を知っているのは私だけなのです。この真実を記録として書き残しておかなければ、謎の人で永久に終わってしまうのです。これは私の責任として書き残しておかなければと、書きはじめたのです。
ただ真実の記録として残しておくつもりだったのですが、新書館の白石さんに、これは寺山修司を愛している人なら誰でも知りたく思っていることだから、本にして出しましょうとすすめられて、いろいろ手助けしてもらいまして、とうとうこうなりました。
手の不自由な私のために手伝ってくださった西浦禎子さんもいました。仁茂弘美さんもいました。みなさんのおかげでやっと出来上がりました。有難うございます。
寺山修司の母堂寺山はつは、平成3年12月26日77才の生涯を閉じ、息子といっしょに東京・八王子の高尾霊園で眠っています。