大学生当時、ネフローゼを患い3年間の入院生活を余儀なくされてあいました。死神と戦いつづける中、寺山修司の戯曲第一作である詩劇「忘れた領分」は書かれました。昭和30年、寺山修司が19才の作品。早稲田大学で劇団「ガラスの髭」を組織し、昭和31年5月26日「緑の詩祭」で上演されています。
「寺山修司の戯曲」など彼の軌跡を残した書物の年譜には、この「忘れた領分」が記されていたものの、その内容はベールに包まれていました。彼は生前、幾人かのジャーナリストに「僕の戯曲第一作は詩劇・忘れた領分だよ」と語っていたものの、遺品の中に原稿もコピーも見あたらなかったといいます。ところが1999年、大学時代の友人宅でガリ版刷りの台本が発見されました。
1999年6月、月刊俳句総合誌「俳句現代」6月号は、「寺山修司の俳句、21世紀へ」と題し特集を組みました。そこで初めて「忘れた領分」が公表されました。同年9月、角川春樹事務所は「寺山修司の忘れもの」を発行、「忘れた領分」の他、新聞小説、作詞など未刊作品を収録しています。