長編小説 ああ荒野

1969年8月15日第2版(定価480縁)現代評論社/初版1966年11月
イラスト:山藤章二


長編小説「ああ、荒野」は、おそらく彼が書いた最初で最後の小説でしょう。コンセプトについては、「あとがき」に記してあります。冒頭に主な登場人物6名を紹介。本編は15章で構成されていて、挿画、イラストは一切入っていません。ジャズの手法を用いて書いたとコメントしていますが、その発想が寺山修司らしいです。小説でありながら、脚本のない演劇を観ているような感覚です。河出文庫が文庫本として再版しています。


あとがき

「ああ、荒野」は私の生まれてはじめて書いた長編小説である。この小説を私はモダン・ジャズの手法によって書いてみようと思っていた。幾人かの登場人物をコンボ編成の楽器と同じように扱い、大雑把なストーリーをコード・ネームとして決めておいて、あとは全くの即興描写で埋めていくというやり方である。したがって実に行き当たりばったりであって、構成とかコンストラクションとはまるでほど遠いものとなった。しかし、書きながら登場人物がどう動いていくかを(登場人物といっしょに)アドリブで決めてゆくという操作は私にとって新鮮な体験であった。多くの場合、小説家たちは一つの決定論に身をまかせた上で、それを書きながらたしかめてゆくという姿勢をとるが、私はこの小説の場合には「最初からわかっていたのは何一つとしてなかった」のである。

私はこれを書きながら、「ふだん私たちの使っている、手垢にまみれた言葉を用いて形而上的な世界を作り出すことは不可能だろうか」ということを思いつづけていた。歌謡曲の一節、スポーツ用語、方言、小説や詩のフレーズ。そうしたものをコラージュし、きわめて日常的な出来事を積み重さねたとのデベイズマンから、垣間見ることのできた「もう一つの世界」そこにこそ、同時代人のコミュニケーションの手がかりになるような共通地帯への回路がかくされているように思えたからである。したがって、私はこの長編小説「ああ、荒野」を文壇とか、作家希望者とか批評家とかに提出して、その文学価値を論議されるよりも、できるだけ多くの人に読んでもらって、そこから肉声で「話しあえる」場所へ到達する近道を見いだすことの方を選びたいと思っている。実際、この小説には東京都新宿区歌舞伎町という共作家兼批評家がいるのであって、私は世界で一番その町が好きだし、安心できるし、信頼もしているのである。

さて、私は本の冒頭に「この本をつつしんで父に捧ぐ」とか「愛するAに捧ぐ」とか書いてあるのが好きである。そこでこの「ああ、荒野」も誰かに捧ぎたいと思ったのだが、なかなか最適の相手が見つからなかった。私自身に捧ぐというのも気が引けるし、サラブレッドのニホンピローエースに捧ぐといっても馬は書物に無縁である。シカゴの作家のネルソン・オルグレンに捧ぐといってもオルグレンがこの小説を読まなければ無意味だと思う。同じ事はジェーン・マンスフィールドについても言えるだろう。だからこの小説は、きわめて率直にお金を出して買ってくれた読者のあなたに捧げたいと思う。シナトラの歌ではないが、

もしも心がすべてなら
いとしいお金は何になる

という現実主義の名誉にかけて。一九六六年秋

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