1975年(昭和50年/39歳)
東京・杉並区で市街劇「ノック」上演中、警察が介入、社会面を賑わす。カンヌ映画祭に映画「田園に死す」出品。オランダ、西ドイツで「疫病流行記」上演。「迷宮タン」でオーバーハウゼン実験映画祭銀賞を受賞。「句集 花粉航海 」(深夜叢書)刊。シナリオ「田園に死す」(フィルムアート社)刊。詩集「恋の学校」(サンリオ出版)刊。戯曲「地球空洞説」(新書館)刊。小説「あゝ荒野」新装版(現代評論社)刊。エッセイ集「青蛾館」(文藝春秋)刊。、「気球乗り放浪記」(読売新聞社)刊。「十五歳の詩集」(サンリオ・ギフト文庫)刊。「長篇叙事詩・地獄編」新装版(思潮社)刊。写真集「犬神家の人々」(読売新聞社)刊。
1976年(昭和51年/40歳)
「疫病流行記・改訂版」を東京で上演。「寺山修司、鏡の国のヨーロッパ展」池袋西武百貨店。ロサンゼルス映画祭で「田園に死す」特別上映。ベルリン映画審査員として渡独。「阿呆船を東京、イランで上演。映画「田園に死す」が、ベルギー、バース、バネルマデナ各映画祭で審査員特別賞受賞。渋谷天井桟敷閉館。麻生十番の天井桟敷館開館。戯曲集「毛皮のマリー」(角川文庫)刊。戯曲集「青森県のせむし男」(角川文庫)刊。演劇論集「迷路と死海・わが演劇」(白水社)刊。評論集「鉛筆のドラキュラ」(思潮社)刊。歌集「帆歌」(短歌新聞社)刊。
1977年(昭和52年/41歳)
「寺山修司の千一夜アラビアンナイト展」渋谷西武百貨店。西武劇場のプロでデュースで「バルトークの中国の不思議な役人」を作・演出。菅原文太主演・長篇映画「ボクサー」(東映)上映。実験映画「マルドロールの歌」「消しゴム」「二頭女-影の映画」「一寸法師を記述する試み」「書見機」を監督。ジュネーブ、オランダ、アムステルダムなどで「寺山修司の幻想写真展」を開催。「幻想舞台美術写真帖・天井桟敷の人々」刊。対談集「火と水の対話」(新書館)刊。
1978年(昭和53年/42歳)
天井桟敷「奴婢訓」晴海国際貿易センターでワークショップ。オランダ、ベルギー、西ドイツ各都市で「奴婢訓」上演。フランスのプロデューサー、ピエール・プロンベルジュ製作・オムニバス映画の一篇「草迷宮」を脚本・監督。東陽一監督作品「サード」の脚本担当。対談集「浪漫時代」(丸芸出版)刊。評論、自伝「黄金時代」(丸芸出版)刊。写真集「寺山修司の仮面画報」(平凡社)刊。小説、戯曲「奴婢訓」(アディン書房)刊。「さかさま文学史・黒髪編」(角川文庫)刊。
1979年(昭和54年/43歳)
「新劇」に「畸形のシンボリズム」を連載。天井桟敷公演「レミング-世界の涯てまで連れてって」。サンリオ映画・羽生進監督「アフリカ物語」のシナリオ執筆。映画「草迷宮」パリで公開。天井桟敷イタリア公演「奴婢訓」、ローマ・スポレート芸術祭参加。以降、フィレンツェ、トリノ、ピサなどの各市を巡演、国際児童演劇祭に、デンマークのオデンシアターらと共に参加、児童音楽劇「こども狩り」。ドゥリード国際映画祭(米国)の招きで渡米。バークレー・カリフォルニア大学にて全作品上映と解説、実験映画「マルドロールの歌」のよって、フランス・リール国際短編映画祭の国際批評家大賞受賞。西武劇場にて魔術音楽劇「青ひげ公の城」上演。肝硬変のため北里大学附属病院に一ヶ月入院。評論集「青少年のための自殺学入門」(土曜美術社)刊。