1980年(昭和55年/44歳)
「シティーロード」読者選出ベストテン・演劇部門「作家・演出家」の分野で、昨年に続き第1位となる。ベストプレイでは昨年に続き、レミングが一位。高取英と企画し「別世界・寺山修司の世界」刊。コスポレート・フェスティバル・アメリカの招待で、天井桟敷初のアメリカ公演。サウス・キャロライナで「奴婢訓」上演。ニューヨークで俳優の公開ワークショップ。ニューヨーク、ラ・ママにて「奴婢訓」上演。ポーリーヌ・レアージュの「0嬢の物語」をもとに脚本を書き、「上海異人娼館」(チャイナドール)と題して監督。朝日新聞社から書き下ろす予定だった「路地」の取材中、私道に入り逮捕され、マスコミを賑わす。評論集「鉛筆のドラキュラ」新装版(思潮社)刊。シナリオ集「十九歳のブルース」(新書館)刊。
1981年(昭和56年/45歳)
肝硬変のため再び北里大学附属病院に一ヶ月入院。「奴婢訓」でダウンタウン・ビレッジの有力なコミュニティ新聞「ヴィレッジャー」紙の最優秀外国演劇演劇賞受賞。東京・晴海で天井桟敷「百年の孤独」を作・演出。「’81版・観客席」を上演。エッセイ集「不思議図書館」(PHP)刊。「寺山修司少女詩集」(角川文庫)刊。評論集「月蝕機関説」(冬樹社)刊。
1982年(昭和57年/46歳)
吉田光彦、「誰か故郷を想はざる」をマンガ宝島で漫画化。1月から3月まで映画「百年の孤独」(仮題)(のちに「さらば箱舟」に改題)を沖縄ロケ。利賀国際円書きフェスティバルに「奴婢訓」で参加。9月、詩「懐かしのわが家」を朝日新聞に発表。「報知新聞」不治の病と発表。谷川俊太郎とビデオレターの交換をはじめる。この年、ガルシア・マルケスがノーベル文学賞受賞。スポーツエッセイ集「スポーツ版裏町人生」(新評社)刊。演劇論集「臓器交換序説」(日本ブリタニカ)刊。エッセイ集「幻想図書館」(PHP)刊。「寺山修司全歌集」(沖積社)刊。
1983年(昭和58年/47歳)
絶筆となった「墓場まで何マイル?」(週間読売)を書く。唐十郎・作「佐川くんからの手紙」の映画化の脚本を引き受ける。4月22日、意識不明となって東京・杉並区の河北総合病院に入院。5月4日(水曜日)午後12時5分、肝硬変と腹膜炎のため敗血症となり、九條映子、田中未知、高橋ひとみらに看取られ同病院にて死去。享年47歳。4日から5日まで天井桟敷館にて仮通夜。6日、本通夜。7日、劇団員と親しい人々によって密葬。五反田の桐ヶ谷火葬場で荼毘に付す。5月9日、青山斎場にて葬儀と告別式。葬儀委員長・谷川俊太郎。無宗教のため戒名なし。ニューヨーク、ラ・ママにて追悼集会開かれる。12月5日、東京都八王子高尾霊園に墓が作られる。「現代詩手帖臨時増刊・寺山修司」(思潮社)刊。「寺山修司の世界」(新評社)刊。「寺山修司全歌論集」(沖積社)刊。「対談集・身体を読む」(国文社)刊。「寺山修司歌人文庫」(国文社)刊。「寺山修司演劇論集」(白水社)刊。「闘技場のパロール」(国文社)刊。