空には本

1958年6月初版(400円)/的場書房/
写真は平成15年9月1日、沖積舎から出版された復刻版です。

「空には本」は昭和33年6月、的場書房から刊行された寺山修司の第一歌集。発行部数はわずか800部。現在、本物はオークションで30万円します。彼が18歳の時、短歌研究に投句した「父還せ」が特選となりました。選者は歌人の中井英人。しかし、当時は、新人歌人を古い体質の旧歌壇が意図的に非難する傾向があったといわていています。選者の中井氏によって、その攻撃の的になりそうな17首が削られ、原題「父還せ」も「チェホフ祭」に書き換えられました。この「チェホフ祭」をはじめ、十代に作った短歌をまとめたのが「空には本」です。そのあとがきに、「僕のノオト」と題した寺山の短歌に対する考えが述べられています。


僕のノオト

「われわれは、古くなり酸敗したのではない。ゼロから出発するのだ。われわれは廃墟の中で生まれた。しかし崩れ去った周囲の建物は、われわれに属していたわけではない。生まれた時すでに黄金は瓦石に変わっていたのである」。P・V・D・ボッシュが「われら不条理の子」のなかでそう自分に呼びかけているように、僕もまた戦争が終わったときに十歳だった者のひとりである。
僕たちが自分の周囲になにか新しいものを求めようとしたとしても一体何が僕たちに残されていただろうか。
見わたすかぎり、そこここには「あまりに多くのものが死に絶えて」しまっていて、僕らの友人たちは手あたりしだいに拾っては、これではない、これは僕のもとめていたものではない、と芽ぐみはじめた森のなかを猟りあっていた。
しかし新しいものがありすぎる以上、捨てられた瓦石がありすぎる以上、僕もまた「今少しばかりのこっているものを」粗末にすることができなかった。のびすぎた僕の身長がシャツのなかへかくれたがるように、若さが僕に様式という枷を必要とした。
定型詩はこうして僕のなかのドアをノックしたのである。
縄目なしには自由の恩恵はわかりがたいように、定型という枷が僕に言語の自由をもたらした。僕が俳句のなかに十代の日々の大半を賭けたことは、今かえりみてなつかしい微笑のように思われる。
僕が仲間と高校に俳句会をつくったときには言葉の美しさが僕の思想をよろこばすような仕方でしかなかった。「青い森」グループは六日おきにあつまっては作品の交換とデスカッションを行い、プリントした会誌を配っていたのである。老人の玩具から、不条理な小市民たちの信仰にかわりつつあった俳句に若さの権利を主張した僕らは一九五三年に「牧羊神」を(全国の十代の俳句作者をあつめて)創刊し、僕と京竹久美がその編集にあたった。この運動は十号でもって第一次を終刊として僕らは俳句とははなれたが第二次、第三次の「牧羊神」をはじめ、「青年俳句」「黒鳥」「涙痕」「荒土地帯」その他となって今も俳句運動はひきつがれている。
短歌をはじめてからの僕は、このジャンルを小市民の信仰的な日常の呟きから、もっとsyかいせいをもつ文学表現にしたいと思いたった。作意の回復と様式の再認識が必要なのだ。僕はどんなイデオロギーのためにも「役立つ短歌」は作るまいと思った。われわれに興味があるのは思想ではなくて思想をもった人間なのであるから。
また作意をもった人たちがたやすく定型を捨てたがることにも自分をいましめた。
この定型詩にあっては本質としては三十一音の様式があるにすぎない。様式はいわゆるウェイドレーの「天才は個人的創造でもなく、多数の合成的努力の最後の結果でもない、それはある深いひとつの共同性、諸々の魂のある永続なひとつの同胞性の外面的な現れにほかならないから」である。
しかしそれよりも何の作意をもたない人たちをはげしく侮辱した。ただ冗慢に自己を語りたがることへのはげしいさげすみが、僕に意固地な位に告白癖を戒めさせた。
「私」性文学の短歌にとって無私に近づくほど多くの読者の自発性になりうるからである。ロマンとしての短歌、歌われるものとしての短歌の二様な方法で僕はつくりつづけた。そしてこれからあと新しい方法としてこの二つのものの和合による、短歌で構成した交声曲などを考えているのである。

以下:参考資料

さすがに30万円もする昭和33年初版の「空には本」は入手できませんが、偶然、その年の12月に発行された「短歌年鑑」を手に入れました。主要歌集鈔のコーナーに小さく、「空には本」が紹介されていました。

  

 

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