1965年11月25日初版/紀伊国屋書店(定価300円)
64の詩を引用しながら戦後詩について論じた一冊。29歳の作品。1993年5月、筑摩書房は文庫化し復刻しています(ちくま文庫)。
目次
第一章 戦後詩における行為
1代理人
2書を捨てるための時代考察
3われわれはもっと「話かける」べきではないか。
4実証不能の広野へ
5自分自身に失踪
第二章 戦後詩の主題として幻滅
1「荒野」の功罪
2私は地理が好きだった
3おはようの思想化
第三章 詩壇における帰巣集団の構造
1読みたいの、読まれたいの
2今夜限り世界が・・・?
3詩人mの公生活
第四章
飢えて死ぬ子と詩を書く親と
1人生処方詩集
2難解詩の知的効用
第五章 書斎でクジラを釣るための考察
1戦後詩の代表作
2西東三鬼、塚本邦雄
3星野哲郎
4谷川俊太郎、岩田宏
5黒田喜夫、吉岡実
この本を詩集がわりに読もうとする人たちのためのあとがき
この本のしめくくりとしての私自身のためのあとがき
「この本を詩集がわりに読もうとする人たちのためのあとがき」では、本の中で取り上げている64の詩のそれぞれの掲載ページが記載されています。読者が自由に読みたい詩だけが読めるように工夫されています。エーリッヒ・ケストナーの人生処方箋詩集を模倣したようです。
この本のしめくくりとしての私自身のためのあとがき
批評とは何という醒めた仕事だろう。
私はこれを書きながらクリスチファ・オデットのように、「醒めて歌え!」という文句を何べんも繰り返してみたが、やっぱり「歌う」ことなどはできないのだった。私はひとの詩についてばかり書いてきたが、本当は途中から自分自身のことを書きたい欲望に何度も襲われる始末だった。
「観察」というのは所詮、他人の仕事である。私はこれを書きながら、終始他人である自分を感じて苛立たしかった。たとえば木原孝一は「戦後の詩壇」という論文の中で「一九五六年以来、詩壇は主題を失いつつある」と書いている。だが、私には「詩壇」などというものを詩を書く主体として考えることはできなかったし、そうした総括的な展望の仕方が似合っていなかった。
だから私が書いたのはけ結局、戦後詩の(戦前詩との対比におけるというような歴史的な意味づけではなくて、同時代の詩人たちへの「話しかけ」にすぎない。
それはきわめて孤独な仕事であった。そして、「孤独の難しさは、それを全体として処するところにある」かぎり、私の批評もまたたやすく受容れられないものと思われる。
ここに引用した詩の数倍の「戦後詩」を読んで、私の感じたことは何よりもまず、詩人格の貧困ということであった。詩人たちはみな「偉大な小人物」として君臨しており、ユリシーズのような魂の探険家ではなかった。詩のなかに持ちこまれる状況はつねに「人間を歪めている外的世界」ではあっても、創造者の内なるものではないのだった。私がこのアドリブ的な詩論の副題に「ユリシーズの不在」とつけたのはそうした詩人格への不満に由来している。せめて、私だけはユリシーズ的な詩人格を目指したいし、愛される詩人になりたい。おいや、愛される詩人などよりは畏れられる詩人になりあいと思うのである。
だから、この本の続きの仕事を、私は私自身の詩の実作によってはたすつもりである。まだ何ひとつとして終わったわけではない。最後に、この本を書くことを進めてくださった前紀ノ国屋書店出版部の村上一郎さんにおれをいいたい。村上さん、どうもありがとう。