Aphorism(001~)

書物はしばしば「偉大な小人物」を作るが、
人生の方はしばしばもっと素晴らしい「俗悪な大人物」を作ってくれるのだ!
Aphorism-001「時代の射手」

一日一怒!
この言葉を、私は同時代人のための「時代訓」にしたいと思う。
もっと気軽に怒ろうではありませんか。
親父の尻を蹴飛ばし、
お役所仕事に噛みつき、矛盾と不合理を殴り飛ばし、にっこり笑って、
to love again!
Aphorism-002「街に戦場あり」

希望は美しい、絶望も美しい。だが、両者をわけるものは、もっと美しい
Aphorism-003「奴婢訓」

シェークスピアを面白く読める人は、
東京都の電話帳だって同じように面白く読めるわけだ。
Aphorism-004「密室から市街へ」

人間は、中途半端な死体として生まれてきて、
一生かかって完全な死体になるんだ
Aphorism-005 映画「さらば箱舟」

私は肝硬変で死ぬだろう。そこのとだけははっきりしている。
だが、だからと言って墓は建てて欲しくない。私の墓は、私のことばであれば、充分。Aphorism-006「(絶筆)墓場まで何マイル?」

人間は死ぬべきときに死なず、ただその時期が来たら死ぬもんだ。
Aphorism-007 映画「さらば箱舟」

男はだれでも死について思っている。男にとって、「いかに死ぬべきか」という問いは、
「いかに生くべきか」という問いよりも、はかるかに美的にひびくのだ。
Aphorism-008「ふしあわせという名の猫」

人生には、答えは無数にある。
しかし、質問はたった一度しか出来ない。
Aphorism-009「誰か故郷を想はざる」

「背広を着たまま飛びたい」というのは、
私自身の哲学だったのである。
Aphorism-010「遊撃とその誇り」

いまや安定ムードはボクシング界にまで及んで
「勝つべき時代から食うべき時代」へと変わってきつつあるのだ
Aphorism-011「みんなを怒らせろ」

ひどく短いまえがき
この本は幸福そのものではありません。幸福のかわりに机の上にに置いて下さい。Aphorism-012「ひとりぼっちのあなたに」

人は誰でも、一生の内に一度位は「詩人」になるものだ。
だが、大抵は「詩人」であることを止めたときから自分本来の人生を生きはじめる。
そして、かつて詩を書いた少年時代や少女時代に憎悪と郷愁を感じながら、
たくましい生活者の地歩を固めていくのである。
Aphorism-013「ひとりぼっちのあなたに」

言文一致以後の詩語というのは、案外、意味と音のズレの中に可能性を残しているのではないか、と思ってみたりした。ほんの少し、意味と音とがズレるだけでも、
言語は指示的機能から解放されるかも知れないからである。
Aphorism-013「時代の射手」

私は、日本の詩が形式を捨てて散文化していってしまったり、
言葉のクロスワード遊び記述化してしまったりするのではなく、
「音」を回復しながら高い精神を目指せるようなものでありたいと思っている。
「音」として、朗読にも耐えながら、なお日常の話ことばを超えてゆくところに、
詩の伝達の可能性が残されていると思うからである。
Aphorism-014「時代の射手」

「えっ、アリバイと言はれるか?殺人事件はまだ起きていないのに」
「さやう。だから今のうちからアリバイを作っておくのです。
事件が起きてしまってからでは、遅いのだ」
Aphorism-015「絵本・千一夜物語」

どうやら芝居は「見られるもの」から「見せるもの」へと交代するときに、
一番大切なものを失ってしまったような気がするのである。
自分で見世物の復権をはたしながら、「見られる見世物」の悲しみを
「見せる見世物」のヴァイタリティにうつしかえてみたい。
Aphorism-016「さあさあお立ち会い」

おれは歴史なんかきらいだ。思い出が好きだ。国なんかきらいだ。人が好きだ。
ミッキー・マントルは好きだ。ルロイ・ジョーンズは好きだ。ポパイは好きだ。
アンディ・ウォーホールは好きだ、キム・ノバックは好きだ。
だがアメリカは嫌いだ。
Aphorism-017戯曲「時代はサーカスの象にのって」

青年になることは、いわば事物間の航海者になることであり、
書物と現実とによって引き裂かれた海をさまよう、「時」のオデッセーになることを意味していたのである。私は、なにもかもが余剰な時代に生きている、という実感をいだいている。それは戦後の「不足の時代」の神話の幻影にまどわされて見落としがちだが、たしかな現実である。一九六〇年代の後半、わが国には生も死も、そして政治も詩も余剰にすぎるのだ。
Aphorism-018「ぼくが戦争に行くとき」

鳥はつねに一つの言葉を飛んでいる。
だがわれわれがそれを読みとるのはいつもあとになってからだ。
空にさむい航跡をたどることは「記録」とはいわない。
私にとって記録芸術は、鳥自身になることでしかないのだから。
Aphorism-019「映写技師を射て」

二十才 僕は五月に誕生した
僕は木の葉をふみ若い樹木たちをよんでみる
いまこそ時 僕は僕の季節の入り口で
はにかみながら鳥たちへ
手をあげてみる
二十才 僕は五月に誕生した。
Aphorism-020「われに五月を」

私は私自身の記録である。
Aphorism-021「映写技師を射て」

ホントよりもウソのほうが人間的真実である、というのが私の人生論である。
なぜなら、ホントは人間なしでも存在するが、
ウソは人間なしでは、決して存在しないからである。
Aphorism-022「人間を考えた人間の歴史」

にせ物の寿命は本物の寿命の長さによって決まる。
Aphorism-023「不思議図書館」

私たちはどんな場合でも、劇を半分しか作ることができない。
あとの半分は観客が作るのだ。
Aphorism-024「迷路と死海」

衣装は、全身のための仮面であり、「あらわす」ためだけでなく、
「かくす」機能も持っている。
Aphorism-025「寺山修司の仮面画報」