1955年(昭和30年/19才):
早稲田大学の親友、山田太一(後にシナリオライター、ふぞろいの林檎など)と往復書簡。ネフローゼのため、新宿の社会保険中央病院に生活保護法で入院。母が看病。夏美という名の女性と交際。詩劇グループ「ガラスの髭」を組織。早稲田大学緑の詩祭の旗揚げ公演に詩劇「忘れた領分」を書く。「青年俳句」に俳句との訣れを書く。病状が悪化し面会謝絶となる。
1956年(昭和31年/20才)絶対安静つづく。早稲田大学を中退。
1957年(昭和32年/21才)
入院中、「砒素とブルース」「祖国喪失」「記憶する生」などを作歌。ネルソン・オルグレン「朝はもう来ない」に感動。中井英夫の好意で、第一作品集「われに五月を」(作品社)刊。「はだしの恋歌」(的場書房)刊。
1958年(昭和33年/22才)
病院と新宿・歌舞伎町を往復生活。夏退院し一時青森市に帰る。再上京後、新宿区諏訪町の幸荘に住む。ノミ屋の電話番、ディーラーなどの仕事をしながら賭博とボクシング観戦に根中する。
歌集「空には本」(的場書房)刊。
1959年(昭和34年/23才)
谷川俊太郎のすすめでラジオドラマを書き始める。投稿した「中村一郎」がラジオ九州の久野浩平によって採用され、民放祭大賞を受賞。堂本正樹らと集団「鳥」を組織。ネルソン・オルグレンの「朝はもう来ない」をもとに処女シナリオ「十九才のブルース」を書くが、映画化されず。