1965年(昭和40年/29才):
ラジオドラマ・放送のための叙事詩「犬神の女」(CBC)が第一回久保田万太郎賞受賞。CBC中平卓馬と出会い、彼のすすめで「現代の眼」に、長編小説「ああ、荒野」の連載をはじめる。「芸術生活」に空想旅行記「魔の年」を連載する。古川益雄と出会う。「戦争は知らない」を作詞。早稲田大学劇団仲間にて「血は立ったまま眠っている」を上演、その演出をした東由多加と出会う。テレビインタビュー番組「あなたは・・・」(担当・萩元晴彦)で芸術祭奨励賞受賞。この頃から、日本ペンクラブ、現代歌人協会、シナリオ作家協会などに所属していた。詩集「ひとりぼっちのあなたに」(新書館)、戯曲集「血は立ったまま眠っている」(思潮社)、歌集「田園に死す」(白玉書房)、評論集「戦後史」(紀伊国屋新書)刊。
1966年(昭和41年/30才):
ラジオドラマ・放送のための叙事詩「コメット・イケヤ」(NHK制作、湯浅譲二音楽)がイタリア賞グランプリ受賞。篠田正治と共にテレビ番組のためにバンコックへ旅行。森山大道、中平卓馬と組んで「アサヒグラフ」誌にピクチャーエッセーの連載をはじめる。ドキュメンタリー「おはようインディア」(NHK)で芸術祭放送記者クラブ賞。テレビドラマ「子守唄由来」(毎日)で手医術祭奨励賞。人間座にて「アダムとイブ、私の犯罪学」(江田和雄演出)を上演。テレビ「日の丸」によってテレビドキュメンタリーパージにかかる。評論集「みんなを怒らせろ」(新書館)、評論集「遊撃とその誇り」(三一書房)、少女詩集「さよならの城」(新書館)、「男の詩集」編(雪華社)、長編小説「ああ、荒野」」(現代評論社)刊。。
1967年(昭和42年/31才):
横尾忠則、東由多加、九条映子と演劇実験室「天井桟敷」を設立。旗揚げ準備のために、「寺山修司と詩の会」を定期的に開催。映画「母たち」(ヴェネチア映画祭短編部門グランプリ)のコメントを書くため監督の松本俊夫らとフランス、アメリカ、ガーナ、アフリカなどを旅行。天井桟敷第一回公演として、「青森県のせむし男」、再演、三演。第二回公演として、「大山デブコの犯罪」。第三回公演「毛皮のマリー」は、作、演出、美術、音楽、照明を担当する。丸山明宏の主演にて、再演、三演。第四会公演「花札伝綺」。新書刊フォアレディース刊行はじまる。評論集「書を捨てよ、町へ出よう」(芳賀書店)、少女詩集「はだしの恋唄」(新書館)、エッセイ「人生なればこそ」(大和書房)、評論「時代の射手」(芳賀書店)刊。
1968年(昭和43年/32才):
「現代詩手帖」に「暴力としての言語」、「思想の科学」に「幸福論」の連載をはじめる。第五回公演「新宿版千一夜物語)(宇野亜喜良美術)。第六回公演「伯爵令嬢小鷹狩掬子の七つの大罪」(萩原朔美演出)、「青ひげ」(前田律子演出、井上洋介美術)。アメリカ政府の招きで、アメリカ前衛劇事情視察。ニューチークにて、ラ・ママ、サンフランシスコで数人のフィルムメーカー、シカゴにて黒人雑誌「エボニー」編集部、ケンタッキー^・ダービー、ネルソン・オルグレンを訪れるも留守。羽仁進の映画「初恋・地獄篇」のシナリオを書く。第七回公演「書を捨てよ町へ出よう」、再演、祭演。ラジオドラマ「狼少年」で芸術祭奨励賞受賞。第八回公演「星の王子様」(宇野亜喜良美術)。ユリシーズの馬主となる。この年、全国110の大学に学園闘争拡大。「ハイティーン詩集」(編・三一書房)、自伝「自叙伝らしくなく・誰か故郷を想わざる」(芳賀書店)、評論集「思想への望郷(上・下)」(大光社)。寺山修司評論集「アメリカ地獄めぐり」(芳賀書店)刊。
1969年(昭和44年/32才):
東大闘争安田講堂のルポルタージュを「サンデー毎日」に書く。「SD」誌にて高松次郎、原広司、宇佐見圭司とシンポジウム。思潮社版「寺山修司の戯曲」シリーズ刊行はじまる。新書館より編著・あなたの詩集シリーズ刊行はじまる。渋谷に天井桟敷館及び地下小劇場落成。デザイン栗津潔。第九回公演「時代はサーカスの象にのって」(萩原朔美演出、及川正通美術)。唐十郎率いる状況劇場との乱闘事件で留置される。土方巽が仲裁。「時には母のないこのように」を作詞(田中未知作曲)。ドイツ演劇アカデミーの招待で、国際演劇祭に劇団15名と共に渡独。演劇理論誌「地下演劇」を創刊。編集。イスラエル国務省の招待にてイスラエル演劇事情を視察。ネルソン・オルグレン来日する。競馬、ボクシングなどに案内する。一二月末、九条映子と離婚。この頃より渋谷区NHK裏の松風荘に住む。「ドキュメンタリー・家出」(ノーベル書房)館。