ニュースレター/昭和52年4月17日付

ごぶさたしておりますが、お元気ですか? 忙しさにとりまぎれてお便りを書く時間がなかなかできないので、ロンドンの友人ジム・ヘインズの真似をして、ニュースレターというの送ることにしました。三十人の友人に同じ手紙を書くことになりますが、ごぶさたするよりはよい、と多目に見て下さい。こちからから定期的(月1回位)お送りするつもりです。

最近、久しぶりに(実に十四年ぶり位に)また短歌を作りはじめました。べつにこれといった理由もなく、作りだしたいという衝動にかられるままに、ボツボツ作っています。そのうちに発表するかもしれません。霊媒とか呪術と少年時代の記憶がとが、結びついたものですが、やはりウォーミングアップ不足でうまくいかないようです。
「現代の眼」という雑誌に「さらば津軽」というエッセイを連載しており、いままで津軽三味線、永山則夫、方言詩、などのことを書き、いま出ている号には、トラホーム(盲目考)のことも書いています。次は人買いのことを書くつもりです。山椒太夫の話が、津軽で生まれたときいたので、そのことを少し調べてみようと思っています。
相変わらず映画は観ていません。先日は見のがしていた「砂のミラージュ」を見るつもりでしたが、急に仕事が入ってダメでした。
最近うまいと思ったものは「道玄坂の「麗郷」の肉員(バーワン)でした。これは誰にでも推薦出来る珍味だと思います。今月書く仕事は、ジュール・ヴェルヌについて「ユリイカ」に、書簡演劇について「現代思潮」に、そしてル・クレジオについての座談会を高松次郎、豊崎光一氏らと「現代詩手帳」で行います。
今年のダービーは全く何が強いのかわからぬ混戦状態ですが、十七日にフジテレビで、「皐月賞」の予想をすることになっています。(日がせまつてくると変わるかもしれませんが)。
毎週金曜日の「日刊ゲンダイ」をみたことがありますか? 夕刊紙ですが、見開き二ページで、僕と友人が、遊びのページを作っています。現金二万円を東京のどこかに埋めて、読者に捜してもらう宝探しなどもやっています、お暇な折、のぞいてみて下さい。
今の予定は、六月に僕の映画を全部まとめた「寺山修司映画個展」(西武劇場)、七月には「中国の不思議な役人」(西武劇場)の再演です。日がせまったら、チラシを送りますので、又、友人に勧めて下さい。そしてぜひあなたも見に来て下さい。「寺山修司の予告編」というおかしな本(光風社)が出来ました。本屋で立ち読みして下さい。まだ単行本に入っていない絵物語「巨人伝」の一部が入っています。
天井桟敷の秋の予定は九月の密室劇です。そのために八月には北茨城に合宿するつもりです。あとは又、次の便りに書きます。あたなたの近況もぜひお知らせ下さい。お返事を待っております。

寺山修司

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映写技師を射て 寺山修司映画論集

1975年6月30日初版(定価960円)新書館/ブックデザイン:栗津潔


寺山修司の映画論を集めた作品です。1981年発行の「地球をしばらく止めてくれ、ぼくはゆっくり映画を観たい」(角川文庫)には、5つの新稿を加え、文庫化されています。単行本は、中央線・荻窪駅前の古本屋で発見しました。小生のコレクションの中で、前の所有者があちこちに緑色のボールペンでマーキングしている一冊です。よほど気に入っていたのでしょうが、なぜ手放したのか。「テレビは思想の衰弱」という言葉が、余白に記されていました。小生が二番目の所有者であると思わせてくれる書き込み入りの古本です。「あとがき」なし。実験映画「トマトケチャップ皇帝」に関する記録が収められています。


目 次:

少年の飛行学 ケン・アナキン
カリガリ博士の犯罪 映画創世史 ローベルト・ウィーネ
地平線の起源について アンドレ・カイヤット
幸福論のすりかえ フランソワ・トリュフー
思想としてのカサノヴァ ジョン・ヒューストン
中古背広を着た王 エリア・カザン
誰が老人に話しかけるか ジョン・ヒューストン
汽笛 降旗康男
ハロウ・ハーロー ゴードン・ダグラス
もう一つの眠り 松山善三
親父、うしろは川だよ 黒沢明

気狂いピエロ(1) ジャン・リュック・ゴダール
気狂いピエロ(2) ジャン・リュック・ゴダール
気狂いピエロ(3) ジャン・リュック・ゴダール
サテリコン フェデリコ・フェリーニ
81/2 フェデリコ・フェリーニ
にっぽん昆虫記 今村昌平
人間蒸発 今村昌平
神々の深き欲望(1) 今村昌平
神々の深き欲望(2) 今村昌平
討論「少年」 大島渚

賭博(1) テーブルの上の荒野
賭博(2) フィルダー・クック「テキサスの5人の仲間」
脱獄 ジャック・ベッケル「穴」
性 ヴィルゴット・シューマン「私は好奇心の強い女」
加虐 石井輝男「徳川女刑史」

「書を捨てよ町へ出よう」ノート
記録映画の鳥類学的比喩
「トマトケチャップ皇帝」ノート(1) 構想
「トマトケチャップ皇帝」ノート(2) シナリオ第一稿
「トマトケチャップ皇帝」ノート(3) シナリオの放棄 撮影開始
「トマトケチャップ皇帝」ノート(4) フィルムの編集
「トマトケチャップ皇帝」ノート(5) 字幕+言語
「トマトケチャップ皇帝」ノート(6) スタッフ・キャスト・上映経過


記録映画の鳥類学的比喩

飛ぶ鳥に向かってシャッターを切るとき、鳥がどの高さまで上がるかを耐えるのが写真の個性である、といえよう。この「耐える」営為なしでは作品が存在しないが、耐えることによって失われた客観的な価値は、純粋記録の意味を堕落させる。
純粋記録とは何か。
それはある日からある日まで休みなくまわりつづけているカメラの眼であり、dの屋根の下にも、どの家具の下にも、私たちすべてのいる場所を太陽よりもくまなく同時に見張りつづけているカメラの眼である。従って、そんなものは存在し得ないように「純粋記録」などは存在し得ない、と考えられる。
パルピュスの主人公は、「眼をこらして、わたしは見た、隣室はそのむきだしの姿を呈示する」と私たちの気をそそるが、彼は目撃者であって記録者ではない。社会問題としての「人目につかぬ片隅の壁穴」などという観念は、すでにプリミティブな意味での人間を喪失して記録などを果たし得たよう筈はない。

(中略)

鳥はつねに一つの言葉を飛んでいる。
だがわれわれがそれを読みとるのはいつもあとになってからだ。
空にさむい航跡をたどることは「記録」とはいわない。
私にとって記録芸術は、鳥自身になることでしかないのだから。

(中略)

私は私自身の記録である。

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青森県のせむし男

天井桟敷第1回公演

1969年4月18日~20日 草月会館ホール
入場料500円 午後7時開演

作・寺山修司 演出・東由多加 美術・横尾忠則 音楽・山岸磨夫 照明・沢田祐二 制作・高木史子 舞台監督・高橋敏明 動物演出・高橋英雄

キャスト
大正マツ(老いたる花嫁):丸山明宏
女浪曲師(女学生である):桃中軒花月
松葉杖(赤い花のあんま):長崎稔明
松葉杖(白い花のあんま):工藤 勉
大正松吉(母恋のせむし男):増岡 弘
口上(侏儒である):竹永敬一
美少女(毒薬の調合をする):斉藤秀子
家令(法医学研究をする):大石 柾
美少年(入浴場面付):萩原朔美
ヴィーナス(裸である):大沼八重子
老婆1(目婆である):森下滋子
老婆2(耳婆である):伊藤知子
老婆3(口婆である):今井 優


戯曲「浪花節による一幕」

地獄から風が吹きこむようにふいに一陣の三味線の音がながれこんでくる。
一人の侏儒現れて一例して告げる。

侏儒
ただ今より 天井桟敷第一回公演 浪花節による一幕
青森県のせむし男 のはじまりでございます

侏儒ひっこむと暗闇で嗚咽していたような声がしだいに高まってきて
桃中軒雲右衛門の節まわしになる

女浪曲師
これはこの世のことならず
死出の山路のすて野なるさいの河原のものがたり
十にも足りぬ幼な児がさいの河原に集まりて峰の嵐の音すれば
父かと思いよじのぼり谷のながれをきくときは
母かと思いはせ下り手足は血しほと染みながら

ここでひとしきり暗い潮騒のように三味線がはげしくうねって
女浪曲師が赤い花のようなあかりに照らされだされると
セーラー服を着ていることが分かってくる。その背後はまっくら闇だ。

女浪曲師
河原の石をとり集めてこれにて回向の塔をつむ
一つつんでは父のため二つつんでは母のため三つつんでは国のため
兄弟わが身と回向して昼はひとりで遊べども
日も入りあいその頃に地獄の鬼があらわれてつみたる塔をおしくずす

一瞬の静寂があって

女浪曲師
大正松吉を殺したのはおっ母さんです
ニクロム線でしめて草刈り鎌でとどめをさしたのです
あのひとはあたしの夫になる人でした
でも今あのひとはもういない
あのあたしの想い出を
全部かためて出来たこぶの
青森県のせむし男はもういないのです。

戸籍係の失踪

三味線の音とともに 灯りが少しずつ消えてゆき
舞台右手と左手に ぼんやりと浮かび上がる二人の男

二人ともに松葉杖をついている
一人は真っ赤な花を手に持って 一人は白い花をもっている
二人の背後にはかすかに墓が浮かび上がって見える
いきなり

松葉杖 大正大正二年七月十日生まれの 古間木儀人がいなくなったそうだ
赤い花 大正大正二年七月十日生まれの 古間木儀人が?
松葉杖 そう 役場の戸籍係の古間木儀人がだ
赤い花 どこへ行ったんだ?
松葉杖 わからねえ 何でも 突然に行方不明になってしまったのだという話だ
赤い花 そいつは困ったことだ
松葉杖 そう ほんとに困ったことだ あいつがいないと誰も自分の本籍地がどこだかわからねえ 自分がどこに住んでいて だれと血がつながっているのか まるで見当もつかねえってことになる
赤い花 そんじゃ おめえ みんな幽霊になってしまうのと同じこってねえか
松葉杖 ああ ほんとにな
赤い花 村中の人の名前と生年月日も全部
松葉杖 大正大正二年七月十日生まれのあいつが 預かっていたのだ
赤い花 そしてそれを
松葉杖 持ち逃げして行っちまった
赤い花 持ち逃げして
松葉杖 行っちまった

闇夜のなかで かすかにしのび笑いがきこえる
二人の輪以下のやりとりには ときどき三味線が入る

赤い花 本籍現住所から
松葉杖 生年月日まで もっていかれてしまったら 村中の人間がみな自分が一体誰なのか?
赤い花 どこから来たのか?
松葉杖 全然わからなくなっちまう
赤い花 そう 全然わからなくなっちまう
松葉杖 あと 持ち逃げされずに残っているのは(と間をおいて)
赤い花 死ぬ日だけ
松葉杖 死亡年月日だけ

女浪曲師
♪戸籍係が消えたのは
むかしむかしのまたむかし 三十年も前でした
春を恨んで年老いた
ほろほろ鳥に捨てられて
あたしの名前は今いずこ ♪

(語りになって)

実は戸籍係の失踪には わけがあったのです
大正大正二年七月十日生まれの古間木儀人は
大正家の争いにまきこまれるのが こわいばかりに
戸籍簿を全部始末して姿を消したのです。

大正家は法医学者の大正甚蔵 老妻セツ
そして大学の助教授で「遺伝の研究」をしている息子の首吉がいましたが、
長い夏が続いた年に首吉が助十のマツを土手の上で姦してしまいました
間もなく 女中のマツは妊娠し
大正家では 世間態を怖れてマツを入籍しました
ところがマツが子を生む前に
首吉は旅先の上海でコレラに患って死んでしまったのです。

♪ もともとみにくい 女中のこと
わが子が死んだあとまでも
何で面倒みるものか
セツは女中を 責めまくり
雨がふり日は 雨責めに
雪がふる日は 雪責めに
日毎夜毎のことば責め
責めても責めても責めたりぬ
子の過ち 春が来て

捨て子の子守唄

角巻をかぶった三人の老婆
集まってひそひそ話は

老婆1 それで女中のマツは
老婆2 それで女中のマツは
老婆3 子を産んだそうだ
老婆1 さまざまのまじないにすがりながら
老婆3 米町寺町仏町
老婆2 新寺町の三丁目
老婆1 お月さまがトラホームに患って
老婆2 赤くくもった十月の十日
老婆3 仏壇や屋のはなれを借りて
老婆1 父無し子を生んだそうだ
老婆2 生んで帰ってきてみれば
老婆3 もはや しゆうとも気が変わって
老婆1 やさしくしてくれると思ったのは大違い
老婆2 易のたたり
老婆1 蝮の血
老婆3 義眼の霊柩車
老婆2 焼き殺した鳩
老婆1 毒あざみ
老婆3 死人の念仏
老婆2 赤児を見るなりしゆうとは言った
老婆1 「すぐ捨てろ すぐ捨てろ」
老婆2 「マツは猫を産んだぞ」
老婆3 「裏山へ捨てて 野ざらしにしてしまうがいい」

荒涼とした風が吹き
三味線の音が悲鳴のようにうねってゆく

女浪曲師(語りで)
そこで下男の斧助が呼ばれ 嫁が産んだ猫を裏山で殺すようにと 言われました
斧助は 古新聞につつまれて腰巻の紐でくくられた赤児を抱いて
裏山まで来ましたが 考えてみれば あまりにもかわいそうな話なので
しゆうとには勿論 母親にもだまって 自分で養おうと思いました
斧助は子を盗んだのです

(三味線入って)

ところが
赤児のうぶ毛を剃りおとし
それを包んで来た新聞紙にくるみ 殺したことにして
さて かわいやと抱きあげてみると何とその赤児は
肉のかたまって出来たせむしなのでした

老婆1 さて 困った
老婆2 今更 あらためて捨てるわけにもいかぬし
老婆3 育てるには あまりにもひどい不具
老婆1 こうと知ったらむしろ
老婆2 中をあけてみたりせず
老婆3 殺してしまえばよかった・・・
(しだいに阿呆陀羅経の鳥づくし感じになってゆく)
老婆1 殺してしまえば よかったものは
老婆2 ゆりかごの鳥 せむし鳥 蚊帳にもたれてキヨロキヨロと心せきれい うぐいすの
老婆3 背中のこぶのとまり鳥 闇にながれる川千鳥 家族は何も白鷺でただつくづくと あほう鳥

 女浪曲師
♪ 世間は鵜の目、鷹の目で 五十男の斧助は
十日どんびを ひとつかみ 産んだひよこが ピヨピヨ
どこでどうして産みかもめ
大方のんで 鴨にされ ねぎと背負った父なし児
それでも夜は 閑古鳥 背中のコブがモズモズと ウズラウズラとかたまれば
さすがにかくしきれないで 戸籍に入れて育てるか
あるいは戸籍に入れまいか 入れてしまえばわが子だが
入れずにおけば大正の 遺産継ぐべき血縁の ころがりこんだ宝もの
迷い迷って口ツグミ 戸籍係りを追い払い
どつちつかずにしておけば かごの赤児が夜泣きする ♪

舌切り雀 お宿はどこだ?
舌切り雀 お宿はどこだ?
舌切り雀 お宿はどこだ?
(女浪曲師の背後から
ゆっくりと青森地方の子守唄がきこえてくる
重くせつなく)

女浪曲師(語りで)
一方 夫を失い たつた一人のわが子も 捨てられてしまったマツは
一時的に気がふれてしまいました
夜 寝落ちてから 遠くの山からきこえてくる子守唄は
いつまでもマツの唄だったのでございます

卒塔婆を抱いたマツが
幽霊のようにあかりのなかに浮かびあがり
その卒塔婆をわが子のようにあやしながら唄っている

寝ろじゃ 寝ろじゃ
寝たこへ
寝ねば山から
もって来るあね

それを包みこむ山嵐のように音楽が
なだれこんできてかき消されてしまう
だが かき消されながらマツは
あどけない声で子守唄をうたいつづける

寝ろじゃ 寝ろじゃ
寝たこへ
寝ねば山から
もって来るあね


 

つづく・・・・

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新いろは加留多

塚本邦雄と寺山修司
この二人を、「と」という助詞でつなぐくとの危うさを、私とても知らぬ訳ではない。「と」・・・それは同質をつなぐほどには、対極をもつなぐ。おそれずいえば、この二つの星は、対極であるとともにそれゆえに同質である。つまりは同質であるとともにそいゆえに対極である。この可逆の構図は、極めて簡明にして極めて微妙、右は天上を志し、左は墜地獄に燃える双頭の鷲の、生としての痛みと死として歓びの同時体感をよみとることができるだろう。
(中略)
寺山のメインテーマが、戸籍喪失、戸籍探しであることはかつて述べたが、すべてを己れを求める寺山とは対比する時、その意味はより明確化するだろう。比喩として言えば、塚本は子宮を裡に持ち(あるいはすなわち子宮であり)、寺山は子宮への遡行(欠落感、飢餓感)を全行動の原理とする。国文学(学燈社)昭和51年1月号・特集より抜粋


 

新いろは加留多


  • いろは親仁とアイウエ息子 塚本
    言わぬが鼻 寺山

  • ロンドン土産に赤毛布(あかげつと) 塚本
    論より勝負 寺山

  • 歯医者の外車 塚本
    針の穴に親指 寺山

  • 二枚目の女旱(をんなひでり) 塚本
    似てい妬いても食えぬ 寺山

  • ホックはづしてファック 塚本
    ほら吹いて花散らす 寺山

  • 変人変心せず 塚本
    へそまがりの字まっすぐ 寺山

  • 蜻蛉蝶々(とんぼてふてふ)もパリ帰り 塚本
    遠くの火事近くの情事 寺山

  • 近すぎて背中合わせ 塚本
    蝶にもなれず昼寝ばかり 寺山

  • 悋気って病気? 塚本
    律儀者の子無し 寺山

  • 塗り上げて他人の顔 塚本
    縫い針にはれ瞼 寺山

  • ルーペで象見物 塚本
    留守にでは虹 寺山

  • 女形(をやま)の子沢山 塚本
    女形(をやま)火を吐く子役が血吐く 寺山

  • 近若様店曝し(たなざらし) 塚本
    わら人形にわが顔 寺山

  • 閣下殿下定価以下 塚本
    鍵穴からうなぎ 寺山

  • 塗よんどころなく父名告(ちちなのり) 塚本
    嫁入りの蛇かくし 寺山

  • タブーの豚 塚本
    便りがないのは死便り 寺山

  • 冷蔵庫に恋文隠す 塚本
    霊界から電報 寺山

  • そばかすで獅子飼う 塚本
    葬儀屋に産衣 寺山

  • 土捏ねて人間国宝 塚本
    月に梯子 寺山

  • 寝てから起きるものなあに 塚本
    猫踏んで里帰り 寺山

  • 海鼠(なまこ)の用心棒 塚本
    流されてから棹さがし 寺山

  • ラムネも天然記念物 塚本
    欄干から赤紐 寺山

  • 息子恋敵 塚本
    麦藁蛇が枕の下 寺山

  • 盂蘭盆(うらぼん)にロカビリアン 塚本
    うなぎの歯ぎしり 寺山

  • 猪首鳩胸千鳥足 塚本
    (いくびはとむねちどりあし)
    井戸から手踊り 寺山

  • 暢気(のんき)は損気 塚本
    のぞかれてからみだれ髪 寺山

  • 鬼も妹閻魔の姉 塚本
    押し絵の七ほくろ 寺山

  • 車は急に動けない 塚本
    靴屋のねこばば 寺山

  • 養老院から孫の葬式 塚本
    焼け狐に棍棒 寺山

  • 松虫露虫一匹千圓 塚本
    幕下りれば赤の他人 寺山

  • 今日は明日のぬけ殻 塚本
    毛深くて尼となり 寺山

  • ふたなりひらのドロンドロン 塚本
    福は内 鬼も内 寺山

  • 白痴(こけ)の知恵隠し 塚本
    米櫃のこびと百人 寺山

  • 栄耀(えいよう)に麦飯 塚本
    煙突に蝶ネクタイ 寺山

  • 天災地下より 塚本
    手で書いた足 寺山

  • あさってもすぐにおととい 塚本
    あんまの地図好き 寺山

  • 鞘も身のうち 塚本
    三度目の大嘘 寺山

  • 麒麟の日照権 塚本
    気違いも髪型 寺山

  • 雪降って家崩れる 塚本
    湯上がりののみとり粉 寺山

  • めかけもさんゐん 塚本
    迷路でじゃんけん 寺山

  • 三日麻疹(はしか)に九日コレラ 塚本
    見せるだけの毒薬 寺山

  • 支那のジャパン知らず 塚本
    死人のおしゃべり 寺山

  • 絵葉書好きの旅嫌い 塚本
    絵馬のかげの産婆 寺山

  • 冷え性で高利貸食ひ 塚本
    ひらがなで女を捨て 寺山

  • 桃より腿(もも) 塚本
    持たぬ棒でぶたれる 寺山

  • せがまれてつけ胸毛 塚本
    千里の野に蚤一匹 寺山

  • 鮨食ってオマージュ 塚本
    酢が過ぎてまだ童貞 寺山

  • 京育ちの祇園知らず 塚本
    東人形は顔ばかり 寺山
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時代の射手


1967年10月30日初版(定価580円)芳賀書店/カバー写真モデル:状況劇場・麻赤児


小生のコレクションのきっかけとなった作品。中央線の西荻窪の古本屋で見つけ、「探せば絶対に見つかるはずだ」と神田・神保町ではなくて、中央線沿線の古本屋にターゲットを絞って探し回りました。


目 次:

  • 東京零年
    プロローグ/彼らの一分間/話しかける彼ら/「自分の中の他人」/わがフロイド的自伝/幻の性/無宿詩集/林檎と私/死者の書/時をたぐり寄せる/家庭の冬/眠り国にて/ヒューマニズムの亡霊/賭博は道徳のゲリラ/遊戯者の緊張/ある競争/心は寂しい狩人/空想の劇場/俳優孤立のすすめ/プリンと平和/見てしまった夢/自殺した男/たかが一冊のマンガ本のために/友情何するものぞ/人間勃発/太陽族はどこへ行ったか/
  • 詩学
    野菜的幻想/詩は肉体そのもの/詩人の肉体と社会生活/無名と階級の論理は詩に適用するべからず/カメラによって(何を燃やす)/ものの投入/逃亡者の復帰/音としての言語
  • 伝統詩としての短歌の行方
    モダニズムと短歌をめぐって/短歌と民衆をめぐって/短歌におけるナショナリズム

(「あとがき」なし)


音としての言語(抜粋)
ジャズシンガーのアン・リチャーズが来日したときに、彼女は自作の詩を読んで聞かせてくれたあとで、私の短歌を是非読んでくれと言った。私は「血と麦」という私の歌集を贈呈して「短歌というのは日本語特有の諸形式であって、翻訳は不可能である」と言ったが、彼女は「翻訳などしなくてもよい。日本語で読んでくれれば、感じることが出来ます」と言うのであった。私は仕方なしに、意味としてではなく、「音」として自分の短歌を詠み、意味の大要だけをあとで説明した。しかし、おもしろいことには、彼女の評価は大半は私自身の自作に対する評価と似たものだったのである。私は、言文一致以後の詩語というのは、案外、意味と音のズレの中に可能性を残しているのではないか、と思ってみたりした。ほんの少し、意味と音とがズレるだけでも、言語は指示的機能から解放されるかも知れないからである。
イタリア賞のグランプリをもらった私の放送叙事詩「山姥」(NHK制作)についても、同じことが言える。審査員はフランス語に訳されたテキストを読みながら、日本語の定型詩をはさんだ私の叙事詩を「音」として聞いたのだ。ここでは言語を、意味と音都に解体して、そのズレの間に余情をさがすという楽しみで、作品を過大に評価することができたのかもしれない。(私はこうしたズレの間に余情をさがすたのしみを、洋画から学んだ)
スーパー入りのヨーロッパの映画をみるたのしみは、読書でもなければ観劇でもない。まし日本映画とはまるで違った詩の世界を私たちにしめしてくれたものである。なぜなら、私たち日本人は観念を文字で習い、意味の伝達を話しことばから学ぶという習慣を持っていたが、ヨーロッパの映画は、日常行為のフィルムへの観念伝達の可能な文字幕をくっつけてくれたのだ。たとえば、アンドレ・カイヤットの「火の接吻」という映画では、アヌーク・エーメの演ずる女優の卵が、ひどくみすぼらしい無一文の恋人に哲学をささやいているような印象を与えてくれた。しかし、つい先日この作品がアテレコされて(日本の声優に吹き替えられて)テレビから放映されたのをみたら、形而上学などどこかへ吹っ飛んでしまって、ひどく日常的なメロドラマに変わってしまっていたのである。文字としてみれば観念的なことばも、声優の口から話されると、たちまち凡俗な会話に変わってしまうらしい。少なくとも「話しことば」の機能性と「詩のことば」の反機能性は相いれぬものなのだ。だから、戦後詩の大半は、話ことばを捨てて、文字による観念伝達の方へのめりこんでゆき大衆から難解だとされて見捨てられてしまっている。
しかし、「目で見る言葉」も「音としての言葉」も、それが言葉であるかぎりは大切なのは詩の原材であり、片いっぽだけでは変則的なのは自明の理である。私は、日本の詩が形式を捨てて散文化していってしまったり、言葉のクロスワード遊び記述化してしまったりするのではなく、「音」を回復しながら高い精神を目指せるようなものでありたいと思っている。「音」として、朗読にも耐えながら、なお日常の話ことばを超えてゆくところに、詩の伝達の可能性が残されていると思うからである。
イタリアで理解される日本の詞の「音」が、日本で理解されない訳はないではないか。

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