絵本・ほら吹き男爵

1970年10月10日初版(定価850円)サンケイ出版局/絵:及川正通


「ほらふき男爵」は1970年、夕刊フジに連載されたもの。全24話で構成されています。及川正通氏のイラストが、ふんだんに散りばめられています。彼の亡くなった翌年(1986年)、全24話は新書館発行の「寺山修司青春作品集8」で復刻再版されていますが、挿画はなく物語だけが収録されています。絵本と24話の順番が初版と復刻版とではかなり異なっています。


  

目 次:

はじめに/快楽の悪魔/パリの「男くらべ」/キリストの包茎手術/その肉は何の味?/馬を産んだ女/ふしあわせという名の猫/パリのデブコのミルクタンク探検記/笛を吹く少年/ふしぎなソーセージ/ベベという名の山羊/男の闘牛/ジュリーの童話/ああ娼婦ゴーリキー/あんまり長くたれているが/ローソクに火をつけろ/私のカギは?/ヒゲは天才である/ぼくの生んだ卵/カニの夢、夢のカニ/頬にくっついたソーセージ/空飛ぶ葬式/ピノキオ譚/ウバヤバ、ウバヤバ/(「あとがき」なし)

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句集・花粉航海

1970年1月15日初版(定価1800円) 深夜叢書/装幀:建石修志


目次:

草の昼食
十五歳/午後二時の玉突き/地上

目つむりていても吾を統ぶ五月の鷹
 ラグビーの頬傷ほてる海見ては

幼年時代
暗室の時/愚者の船

左手の古典
啄木歌集/無人飛行機/青森駅前抄

花売車どこへ押せども母貧し
 わが夏帽どこまで転べども故郷

鬼火の人
ひとさし指/髪地獄

望郷書店
車輪の下/書物の起源/中学校漂流

だまし繪
かもめ/出生譚

狼少年
わが雅歌/母音譚

憑依
魔の通過/敗北/スペインへ行きたい

テーブルの上の荒野へ百語の雨季
 旅に病んで銀河に溺死することも

少年探偵団
蜜/花粉日記

手稿


手稿

ここに収めた句は、「愚者の船」をのぞく大半が私の高校生時代のものである。
十五歳から十八歳までの三年間、私は俳句少年であり、他のどんな文学形式よりも十七音の俳句に熱中していた。
いま、こうしてまとめてふりかえってみると、いかにも顔赤らむ思いだが、「深夜叢書」斉藤慎爾のすすめを断りきれずに、公刊することになった。当時の青森高校の句会記録や、十代の俳句誌「牧羊神」をひっくりかえし、中から句を拾いだし、選んで、まとめた。湯川書房「わが金技篇」(句集)を底本にし、さらに未公刊のものを100句近く加えたのだが、読むに耐える句が何句あるかさえ、おぼつかないありさまである。今にして思えば、せめてボルヘスの小説の一行分位でも凝縮した句がほしかった。
こうなってみると、歌ばかりではなく、句のわかれもすみやかに果たしてしまいたい、というのが私の希望である。「何もかも、捨ててしまいたい。書くことによって、読むことによって」だ。

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幸福論

1969年12月25日初版(定価550円) 筑摩書房/装丁:栗津潔


目次:

マッチ箱の中のロビンソンクルーソー
肉体
演技
出会い

偶然
歴史
おさらばの周辺部


従来の「幸福論」は、ほとんど書物の中に構築されている思想であった。そして、アランやヒルティに限らず、ボナールの「友情論」や武者小路実篤、亀井勝一郎その他の幸福哲学は、一言でいえばどれも心に唯したものばかりで、まるで、羊毛が紅に染められるように、人生が幸福で染められていくような、美しさにあふれていた。それは、いとことでいえば人格的関係から世界を見るための明式学の学習である。「ともに人生を談ずる一団の友は、高原をそぞろ歩きする人々のようなものである。(中略)」(ボナール「友情論」)。こうした、美文調は大部分の幸福論に見られる共通の傾向である。だが、と私は考える。ヤサグレとかオマンコとか、ヒンメクレとかヤチバと言ったスラングを用いている裏町の「思想家」たちには、幸福論について語る資格はないのか。「おまえ。おれ」どころか「こん野郎」「あほったれ」と呼び合っている人たち、まるで、書物など読むことのない人たちにとって、幸福論の、論とは何なのであろうか


あとがきはなし。「おさらばの周辺部」という項では、次の質問で終わっています。

 あなたは無人島で一人でくらせますか?
 二人ならばくらせますか?

 腹が立ったときにどうやってしずめますか?

 自分の思想と他人の思想との比較に興味を覚えますか?

 自分の性器と他人の思想との比較に興味を覚えますか?

 自分自身は悲劇的ですか、喜劇的ですか?

 政治解放の次に何の解放を求めますか?

 生成が必然的であると思いますか?

 性行為中に、相手のオーガスムをたしかめますか?

 空の星を数えたことがありますか?

 人に好かれていると思いますか?

 幸福ですか?

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長編小説 ああ荒野

1969年8月15日第2版(定価480縁)現代評論社/初版1966年11月
イラスト:山藤章二


長編小説「ああ、荒野」は、おそらく彼が書いた最初で最後の小説でしょう。コンセプトについては、「あとがき」に記してあります。冒頭に主な登場人物6名を紹介。本編は15章で構成されていて、挿画、イラストは一切入っていません。ジャズの手法を用いて書いたとコメントしていますが、その発想が寺山修司らしいです。小説でありながら、脚本のない演劇を観ているような感覚です。河出文庫が文庫本として再版しています。


あとがき

「ああ、荒野」は私の生まれてはじめて書いた長編小説である。この小説を私はモダン・ジャズの手法によって書いてみようと思っていた。幾人かの登場人物をコンボ編成の楽器と同じように扱い、大雑把なストーリーをコード・ネームとして決めておいて、あとは全くの即興描写で埋めていくというやり方である。したがって実に行き当たりばったりであって、構成とかコンストラクションとはまるでほど遠いものとなった。しかし、書きながら登場人物がどう動いていくかを(登場人物といっしょに)アドリブで決めてゆくという操作は私にとって新鮮な体験であった。多くの場合、小説家たちは一つの決定論に身をまかせた上で、それを書きながらたしかめてゆくという姿勢をとるが、私はこの小説の場合には「最初からわかっていたのは何一つとしてなかった」のである。

私はこれを書きながら、「ふだん私たちの使っている、手垢にまみれた言葉を用いて形而上的な世界を作り出すことは不可能だろうか」ということを思いつづけていた。歌謡曲の一節、スポーツ用語、方言、小説や詩のフレーズ。そうしたものをコラージュし、きわめて日常的な出来事を積み重さねたとのデベイズマンから、垣間見ることのできた「もう一つの世界」そこにこそ、同時代人のコミュニケーションの手がかりになるような共通地帯への回路がかくされているように思えたからである。したがって、私はこの長編小説「ああ、荒野」を文壇とか、作家希望者とか批評家とかに提出して、その文学価値を論議されるよりも、できるだけ多くの人に読んでもらって、そこから肉声で「話しあえる」場所へ到達する近道を見いだすことの方を選びたいと思っている。実際、この小説には東京都新宿区歌舞伎町という共作家兼批評家がいるのであって、私は世界で一番その町が好きだし、安心できるし、信頼もしているのである。

さて、私は本の冒頭に「この本をつつしんで父に捧ぐ」とか「愛するAに捧ぐ」とか書いてあるのが好きである。そこでこの「ああ、荒野」も誰かに捧ぎたいと思ったのだが、なかなか最適の相手が見つからなかった。私自身に捧ぐというのも気が引けるし、サラブレッドのニホンピローエースに捧ぐといっても馬は書物に無縁である。シカゴの作家のネルソン・オルグレンに捧ぐといってもオルグレンがこの小説を読まなければ無意味だと思う。同じ事はジェーン・マンスフィールドについても言えるだろう。だからこの小説は、きわめて率直にお金を出して買ってくれた読者のあなたに捧げたいと思う。シナトラの歌ではないが、

もしも心がすべてなら
いとしいお金は何になる

という現実主義の名誉にかけて。一九六六年秋

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ぼくが戦争に行くとき 反時代的な即興論文

1969年8月1日初版(定価470円)読売新聞社/装丁:山本美智代


寺山修司の典型的な即興論文です。西荻窪の古本屋で見つけました。ビニールのカバーのおかげで、昭和44年の初版としては綺麗な状態でした。多くの作品が文庫本で再版されていますが、これはまだ見あたりません。もっとも興味深いのが「あとがき」の代わりに書かれたと思われる最後の「ある家出少年への手紙」です。ある家出少年へ書いたという手紙ですが、内容を見ると寺山修司が寺山修司に寄せているように思えます。なぜ、天井桟敷を通し「劇」を創作しているのか。まさに自問自答をしている点が彼らしいです。まさに「反時代的」な思考が読みとれる作品でしょう。貴重な文章なので、「ある家出少年への手紙」は抜粋せず、全文を記します。


目次:

1 ぼくの内なる戦場
風邪に吹かれて 反戦青年委員会
希望という病気 東京大学
泣くな妹よ 笹崎ボクシング・ジム
書物のそとで ロマン・ロランと現代の会

2 キャンパスでの演説
一九六八年、関西学院大学でのラリー

3 三分間の思想
1 長距離ランナーの挫折
2 エロス的な反逆
3 私怨をもって政治を超えられるか
4 ロビンソン宣言
5 土産は、はずれ馬券
6 便所の中の「星の王子さま」
7 地下テレビのための予告

4 スクリーン・オデッセー
地平線の起源について 「先生」殺しの思想
言葉が眠る時に目覚める世界とは何か 石井輝男の残酷映画
おまえの「古事記」をこそ 神々の深き欲望
思想としてのカサノヴァ 「禁じられた情事の森」の狩人
海で哲学しない奴があるか ジャン・リュック・ゴダール氏
「悲劇の死」の今日 劇は終わるものだろうか?
「気狂いピエロ」よ、さらば 私のサイキック・ジャーニー

5 同世代の戦士たち
伊藤繁論
佐々木竹見論
釜本邦茂論
田辺清論

6 時代精神と癌
青少年のための賭博学入門
1 幸運を信じる心
2 もう一つの推理
3 影なき馬の影
4 キタノオーザのたてがみ
5 あるノミ屋の死
6 過去を故郷と呼ぶな
アパシーの荒野
魂の乱交の機会を
ある家出少年への手紙


 

ある家出少年への手紙

少年時代の私は、ドイツ・ナチスの「われわれは海の乗り出す」という男声合唱が好きであった。海岸で生まれ、海と共に育った私が、現実の海にはさほど興味を持たずに「海」という言葉、海を主題としたさまざまな観念、詩、音楽にのみ心を奪われたのは、世界には「もう一つの海」があることを予感していたからにほかならないだろう。
青年になることは、いわば事物間の航海者になることであり、書物と現実とによって引き裂かれた海をさまよう、「時」のオデッセーになることを意味していたのである。
私は、なにもかもが余剰な時代に生きている、という実感をいだいている。それは戦後の「不足の時代」の神話の幻影にまどわされて見落としがちだが、たしかな現実である。一九六〇年代の後半、わが国には生も死も、そして政治も詩も余剰にすぎるのだ。
ボードレールは「数の増大は陶酔につながる」と書いたが、いかにもこの時代を支配しているのは、足もとの不確かな陶酔であって、きびしい航海者の孤独ではない。情報社会の発達は、ますます事物の多産化をうながし、陶酔と余剰の時代に私たちを引きずり込もうとするだろう。
この七、八年のあいだ、私はこうした余剰の怒濤から身を守るために、多くのものを捨てることについて書き続けてきた。ある年、私は「家でのすすめ」「母を捨てよう」と書き、またある年、「書を捨てよ、町へ出よう」と書いた。そして、いまは「大学を捨てよう」と書いている。だからといって、この七、八年の間「家」や「母親」「大学」そして、また「政治的国家」が余剰すぎたのかといえば、そうではない。むしろ、母親や家や大学、政治的国家といったものを必要とする思考が余剰すぎたのである。母親のいない少年の不幸はとるに足らないが、いない母親を必要とする青年の不幸は、かなり根深いものがある。保護の過剰によって失われてゆく魂のためには、自らが属してきた事象、アブリオリに存在していた家、親、時代といったものへの、きびしい検証がなされなければならないのは、自明の理である。
こんなに世の中が波乱万丈でおもしろいのに、そのうえ、まだ演劇などをしようとするのはなぜか?と問われることがある。大学闘争、ベトナム戦争、沖縄、安保と、たしかに時代は倒錯していて、そこから新しいものが生まれかけようとするためのたかまりは見られる。新聞をひらけば、犯罪と真実、詩と暗黒の「劇」が氾濫している。
そのうえまだ、商業演劇からアンダーグラウンドの小劇場にいたるまで「劇」が増殖してゆき、劇余剰の時代を特色つけてゆこうとするのは、いささか奇異のそしりは免れられないだろう。だが、虚構はたやすく見いだされるが、真に「劇的なるもの」は見いだされ難いというのが、またこの時代の特色の一つになっている。劇はあるが、劇的なものはない。劇場の幕はあがり、ステージには「から騒ぎ」が始まるのだが、それは最初から一つの決定論に向かうべく準備された(つまり、必然性という名の、反青年的迷妄にささえられた劇)にすぎない。いまさら、どうしてそんなものに血をわかすことなど出来ようか。
劇とは、作者の内部での「内的な同一性を外的に表現するための対立」にすぎず、観客の側から見れば、事物の物理学を出ぬことが多い。だが、その事物の物理的な関係をメロドラマにまで止揚してゆく「劇的」想像性こそは青年の特性である。青年は、劇中人物ではなくて、常に劇的人物になることが出来る。
そこには、あらかじめ準備された決定論との葛藤を生み出し、自己の存在を偶然的なるものと認識することで、事物との「出会い」をきびしく見つめる力がある。劇場の内であると外であるとを問わず、私たちはいつでも「劇的なる」空間をつかさどることができるのである。
たかがお芝居で、時代と正面切って向き合えるものではない。歴史における個人の役割もまた、必然性と宿命論とのあいだの往復運動にすぎないあいだは、変革する力を持つことなど出来ないであろう。
線路に父の位牌をたたきつけ、蝉しぐれの田園にたった一人の母を「見殺しにしてきた」家出少年のRよ。ただ、母を捨てるだけのことならば、それはだれにも出来るのだ。その捨てた母と自分との劇を「劇的なる」空間のなかでとらえ直し、母殺しを思想化し得た時に、初めて君は醒めて歌う列に加わることが出来るだろう。数の増大のなかで酔って歌うのは、だれにでもできる。だが、屹立し、醒めて歌うことが君にも出来るか?仏壇のある暗い「家」、せむしの母、遺伝の歴史学といったものから、自分を切り離してしまうことで解放されたと思うのではなく、しかし心は時速百キロで、それを超えてゆこうとするむなしいあがきのなかに、君の「家出」の真実が見いだされるべきなのだ。君はよくフォーク・クルセダーズの「青年は荒野をめざす」という歌を歌っている。
だが、荒野はマカロニ・ウエスタンのスクリーンのように「ここよりほかの土地」に果てしなくひろがっているのではない。ああ、荒野!薄よごれた四畳半のアパート、君の毎日けいこしている「天井桟敷」の地下劇場、そしてまた読みさしの書物のページ。そして捨ててきた遠くの母親のイメージ、そういったものの総体としてある、君の魂のゴミタメのなかにしか荒野は見いだされないのだということを、君は知っているだろうか、どうか?

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