誰か故郷を想わざる 自叙伝らしくなく

1969年10月20日初版(定価420円)芳賀書店
装幀・本文イラスト:辰巳四郎


私は一九三五年一二月十日に青森県の北海岸の小駅で生まれた。しかし戸籍上では翌三六年の一月十日に生まれたことになっている。この二十日間のアリバイについて聞き糺すと、私の母は「おまえは走っている汽車のなかで生まれたから、出生地があいまいなのだ」と冗談めかして言うのだった。

という書き出しではじまる、彼自身のフィクションが混じったまさに「自叙伝らしくなく」という自叙伝です。寺山修司の亡くなった翌年(1984年)、三笠書房から復刻版が出版されています。それには「あとがき」にあたるノートはなく、九条今日子さんが思い出を綴っています。青森・三沢あたりの「かくれんぼ」の話は、大変興味深いです。


 

目次:

汽笛/嘔吐/羊水/誰でせう/排泄/庭/へっぺ/聖女/空襲/
玉音放送/数字/蝉/とさつ/同級生工藤昭夫/草野球/

アイラブ・ヤンキー/西部劇/月光/死/東京/
あの日の船はもう来ない/蝸牛/柱馬/自慰/晩年/かくれんぼ/見世物/

美空ひばり/海/地獄/ボクシング/十七音/句集/
規律/爪/書物/わが町/戦争論/競馬/希望/ノート



ノート

これは生まれてから上京までの私自身の記録である。私は、自叙伝を書くのには、早すぎることも遅すぎることもない、と思っている。上京後のことについては、またいつかまとめて書くことになるだろう。最初に、これを書くことをすすめに来たもと『新評』編集部の鎌田彗、そして芳賀書店編集部の古賀潔、イラストレーションの辰巳四郎の諸兄にお礼を言いたい。

「いま、ぼくがひたすら望んでいるのは-存在することなのだ。どうか忘れないで欲しいが、この不定詞は中国語では(他動詞)なんだよ」
・・・・・・ヘンリーミラー「南回帰線」あばよ。

カテゴリー: 1.書籍 | 誰か故郷を想わざる 自叙伝らしくなく はコメントを受け付けていません

寺山修司評論集 アメリカ地獄めぐり

性・暴力・詩・映画・演劇・政治
1969年8月15日初版(定価750円)芳賀書店/装幀:榎本了壱


西荻窪の小さな古本屋で見つけた一冊です。小生が何度も足を運ぶので、店主もいつのまにか寺山修司の古本を探していたようです。この古本屋では6冊の初版本を手に入れることができました。最初は好意的だった店主ですが、最後の方は欲が出たのでしょう。高額な値段をつけるようになり、学生であった小生はすぐに縁を切りました。これは彼の作品の中で、アンダーグラウンドな雰囲気を出している一冊です。天井桟敷の代表作の一つでもある「時代はサーカスの象にのって」の脚本が収録されています。皮ジャンパーの男に語らせている「詩・アメリカ」。そのモチーフとなった体験記を集めた作品であると思われます。


目次:

  • アメリカンブルース
    アメリカンブルース/見えない人間/「アニタに逢いたいな」/殺人者たちのホーム
  • 演劇と犯罪
    ニューヨークの新しい劇作家たち/「劇場」の死/新しいボヘミアン/トム・オホーガンの演出論/出会い、またはレナード・メルフィ/家畜小屋、またはロシェル・オーウェンズ/偶然の暴力イスラエル・ホロウィッツ/
  • 便所の中でいいことしよう
    アメリカってのはひでえ国だよ/便所のたのしみそれは何/マイホームとしての便所からの「脱出」
  • レポート「愚行の演劇」
    ステージの上でほんとうに大糞する劇団があるよ/悪名高いリディキュラスに「AVANT GARDE」誌は流し目を使っているよ/愚行としての戦争チャールス・ラドラムとのインタビュー記事/ロナルド・タベル ゴリラ・クィーンの間男、または男色の劇作家/安アパートでタベルに逢った夜のことを話そう
  • 付録・戯曲「時代はサーカスの象にのって」
    リンガフォン・レコードで英語を勉強しよう/みんなでジーン・ハーロウをくすぐろう/ファック・アー・ユーも時には歌の文句になるよ/あれたちは戦争へ行きたいんだ/ベトナムのすぐ近くで/ああ、悲しき西部劇は腰抜けの父との決闘/フットボールの規則による「幸福論」の試み/演説 そして孤独な叫び
  • 詩的幻影の街角で
    肉体としてのアメリカ/ウォン・・チュースリー・フォー/若いアメリカ人の詩人たち/アン・ハルプリンの「相互創造」/神話を思い出す力
  • レンズの青髭・リチャード・アベドン
    観察されるアメリカの「英雄」/経験の修正
  • 性の国のスパイ
    セックス・オデッセー/「I am curious」はどんな映画か/労働からの解放/インタビューは言語の性交である
  • 密告の市民権・アメリカの地下新聞
    女性または流れ者お断り/ソーセージ中毒菌で世界崩壊/演説 ゲリラはメッセージである

(「あとがき」なし)



付録・戯曲「時代はサーカスの象にのって」 / 演説 そして孤独な叫び(抜粋)

皮ジャンパーの男:
その時、おれは映画館の便所にかくれていた。刑事がおれをつけてきて、暗い客席を懐中電灯で照らしてあるいている筈だった。おれはもうアパートへ帰れないな、と思った。強姦魔には「帰る家がない」さ。すると、おれは思い出した。アパートの物干しに干し忘れてきた新しいシャツのことを。土曜日にはあれを着て、田中鉄工所に面接にいくことになっていた。仕事が決まれば金が入る。そうすりゃ女なんかいくらだって抱けたのだ。
おれはたった今、やったばかりの女の血がズボンの前ボタンのまわりについているのに気がついた。映画が終わる前には、映画が終わってからか。そうだ早くしなければ映画は終わってしまうだろう。映画が終わってしまうと、白いスクリーンだけが残る。白いスクリーン。白いスクリーン。「やがて、誰もが十五分ずつ世界的有名人になる日がやってくる」って言ったのは誰だ。そいつにもできるのなら、この場末の映画館の映画が終わったあとのスクリーンを見せてやってくれ。誰もいないのだ。誰もいないのだ。おれには帰るアパートがない。そう、おれには帰るアパートがない。おれには帰る家がない。故郷がない。国がない。世界がない。はじめっからなかったんだそんなものは。
一人少年親はなし、頼りになるのは写真だけ。頼りになるのは写真だけ写真片手にピシャリかく。ほたるの光。窓のゆき。

そうそう、中学校の頃、公演でトカゲの子を拾ってきたことがあった。コカコーラの瓶に入れて育てていたら、だんだん大きくなって、でられなくなっちまった。コカコーラの瓶の中のトカゲ、コカコーラの瓶の中のトカゲ。おまえにゃ、瓶を割って出てくる力なんてあるまい、そうだろう、日本。おれがどこから来てどこへ行こうとしているのかを、教えてはくれぬ日本。歴史なんてものは、所詮は作詞された世界にしかすぎぬのか、大学。海峡にしぶく恨み、そして身を捨てるに値すべきか、祖国よ。

(叩きつけるように、「孤独の叫び」がはじまり、出演者全員、立ち上がる)

皮ジャンパーの男:
身を捨てるに値すべきか、祖国よ。
全員:
アメリカよ
皮ジャンパーの男:
歌うな、教えよ、アメリカ、過ぎゆく一切はまぼろし。塗擦場の星条旗の
全員:
アメリカよ
皮ジャンパーの男:
ジェームス・ディーンの机の抽出にしに今もしまい忘れられている模型飛行機のカタログよ。時代なんかじゃなかった、飛べば、空なのだ。すっぽりと涙よ、アメリカにも空があって、エンパイヤーステートビルから、おれの心臓まで、死よりも重いオモリを突き刺す。パンアメリカンのカレンダーよ。ああ、あこがれたあこがれたあこがれた
全員:
アメリカよ。
皮ジャンパーの男:
ジャック・アンド・ペティのマイホーム。ニューギニアの海戦で父を殺した
全員:
アメリカよ
男1:
コカコーラの洪水の、カーク・ダグラスのあごのわれめのアメリカよ
女1:
アボットとコステロを生んだアメリカ、老人ホームの犬は、芸当が得意な、おさらばの
全員:
アメリカよ
男2:
大列車強盗ジェシー・ジェームスのアメリカ、できるならば一度はそのおさねを舐めてみたいアン・マーグレットの
全員:
アメリカよ、アメリカよ(ストップモーション)
皮ジャンパーの男:
おれは歴史なんかきらいだ。思い出が好きだ。国なんかきらいだ。人が好きだ。ミッキー・マントルは好きだ。ルロイ・ジョーンズは好きだ。ポパイは好きだ。アンディ・ウォーホールは好きだ、キム・ノバックは好きだ。だがアメリカは嫌いだ。これも時代なのだ。寒い地下鉄で吹いた、口笛を思いだすか、ボクサーのボブ・ホスターよ。戦争に向かってマッチ一箱の破壊、解放された動物園の方から時代はやってくる。時代はゆっくりとやってくる、時代はおくびょう者の象にまたがってゆっくりとやってくる、そうだ、時代は象にまたがって世界で一番遠い場所、皆殺しの川におもむくだろう、せめてその象にサーカスの芸当を教えてやろう。
ほろんでゆく時代はサーカスの象にまたがって、せめてきかせてくれ、悪夢ではないジンタのひびきを、いいか、「時代よ、サーカスの象にその芸当を教えよ」
全員:「今すぐに、今すぐに」

カテゴリー: 1.書籍 | 寺山修司評論集 アメリカ地獄めぐり はコメントを受け付けていません

はだしの恋唄

1969年6月15日第19版(定価380円)新書館 / 初版1967年7月1日
装・挿画:宇野亜喜良


「ひとりぼっちのあなたに」と同様、新書館の「あなたにおくる噂のフォア・レディース・シリーズ」の中の一冊です。これも「寺山修司青春作品集」で再版されました。共通している部分は、はだしの恋唄のみ。こちらは、宇野亜喜良との共同作業として制作された「人魚姫」の脚本が収録されています。あなたのための人生処方詩集は、彼が集めた海外国内の名詩を使ってエーリッヒ・ケストナー風の「人生処方詩集」にまとめてあります。


目次:

  • ひどく短いまえがき
  • 星のない夜のメルヘン
    世界で一番小さい金貨/スターダスト/いるかいらないか/ポケットに恋唄を/お月さま、こんにちは/長距離歌手/スクスク/鰐
  • 詩物語
    はだしの恋唄/墜ちた天使/火について/泥棒のタンゴ
  • バラード
    楡の木と話した
  • あなたのための人生処方詩集
  • 人形劇「人魚姫」
  • 詩人の日記
  • イラストレーターの日記(宇野亜喜良著)

ひどく短いまえがき

はじめて海へ行ったとき ぼくは はだしでした
はじめて恋をしたときも ぼくは はだしでした
こどもの頃は いつも はだしでした

はだしですごした「古きよき日の思い出」をこめて この一冊をあなたに贈ります


詩人の日記

×月×日

夜の飛行機で羽田に着いた。
四十日ぶりの東京は、ひどくなつかしい気がした。
「どちらへいらしていたんですか?」
と同じ飛行機に乗り合わせたインド人にきかれた。
「ニューヨークとパリとローマとアフリカです」
「お仕事ですか」
「ええ。マザース mothers という映画なんです。
世界中のさまざまな母子のスケッチをカラーフィルムに撮り、
それを一篇の映画詩に編集して、ぼくが言葉をのせるんです」
「それじゃたのしかったでしょう」
「ええ、とてもすばらしい世界旅行でしたよ」
×月×日

ことし七才になる従妹のモミに宿題を出された。
「目が一つで、手が一本で足が六本のもの、なあに?」
というのだ。
一日中考えたが、わからなかった。
夜、ニューヨークで買ってきたギンズバーグの詩のレコード「カデッシ」を聴く。
×月×日

夜、ぼくの家でパーティーがひらかれる。月一回の「小さなサロン」である。
ギターをひいたり、自作の詩を読んだり、音楽を聴きながら話し合ったりする三十人ぐらいのパーティーだが、
今日はゲストに宇野亜喜良を読んで、彼のアニメーションを観る。
少女が魚に変身したりする、例の変身の詩である。途中から、イラストレーターの横尾忠則も
加わって賑やかになる。
出席者はみな、はじめて逢う読者だが、今日読まれた詩の中で、松浦容子さんのこんな詩が印象に残った。

淋しいという字は
木が二つならんでいるのに
どうして
さみしいのでしょう
×月×日

フィンランドの劇作家ユンコラ氏が訪ねてくる。ぼくの叙事詩「山姥」を翻訳して放送したいのだという。
夜、寝る前にふいに気がつく。
「目が一つで、手が一本で足が六本のものは、丹下左膳が馬に乗っているところである」
さっそくあした、モミに言ってやろう。

×月×日
ぼくのマンションの二階に集まっている、大学生たちが中心の演劇実験室が、八月に「毛皮のマリー」をやることになった。これは女装劇で、すべて美女役は男が演じる。

Elle a roule Sa basse
Elle a roule Carosse
Elle a plume
Plus d’um Pigeon

と歌われる毛皮のまりーのにせものが出現。「男から男へとわたり歩き、ぜいたくな暮らしをしていた彼女も、今は虫くいだらけのミンクに身を包み、酔っぱらって昔ばなしをするばかり」という娼婦のマリーのドラマである。
そのキャスティングのため、このところ連日、女装約候補の美少年とばかり逢っている。

×月×日

宇野亜喜良と共同の人形劇「人魚姫」がいよいよ具体的になってきて、今日は主題歌を書きあげなければならないのに、
なかなかすすまない。牧場から電話があって、
「そろそろ馬の名前をきめてください」と言う。
ぼくの馬も、いよいよ秋からレースに出場するのである。
「ユリシーズというのはどうだろう」と言うと調教師の森さんが「はあ、ユリシーズですか」と言いながらうなずいているのがわかった。
今週の土曜日は、ユリシーズに逢いにゆくことにしよう。

カテゴリー: 1.書籍 | はだしの恋唄 はコメントを受け付けていません

さあさあお立ち会い 天井桟敷紙上公演 怪優奇優侏儒巨人美少女

 1969年1月15日初版(定価580円)徳間書店/装丁者:栗津 潔 イラスト:辰巳四郎


この本は、天井桟敷第2回公演「大山デブコの犯罪」の脚本と、舞台写真、俳優の写真、イラストで構成されています。資料としても貴重なものでしょう。巻末には、当時の天井桟敷のスタッフの若き日の写真が掲載されています。寺山修司、横尾忠則、東由多加、和田誠、萩原朔美、九条映子、コシノジュンコ。「大山デブコの犯罪」(肉体版「真夏の夜の夢」)のポスター写真もあり、新宿・末広亭で行われたことが分かります。美術:横尾忠則、音楽:和田誠、演出、東由多加。花桟敷:700円、暗闇椅子:500円、天井桟敷:400円、立ち見:200円というのも、時代を感じさせてくれます。青森・三沢にある寺山修司記念館に展示してある書籍の一つ。


「あとがき」はなし。最後に「天井桟敷とは何か」という寺山修司の日誌があります。


 

「天井桟敷とは何か」/出発の日誌

ある日、私は考えた。少年時代に観た見世物小屋のことが、どうしても忘れられない。火を吐く男、人間ポンプ、ろくろ首、熊娘、そして侏儒や怪力男や美少女が、二十才になっても、しばしば私の夢の中にあらわれては、奇妙な音楽をかきならすのはなぜであろうか。ロートレアモン伯の詩「マルドールの歌」。その中の、

「国から国へとさすらって、こどものときから一種の狂気を育て、また、極端な本能的残忍性をもっていて、じぶんでも恥じているが良心も苦にするあまり死んでしまったのだと信じている者もある。また若かりし日に、ひどいあだ名の烙印で辱しめられたせいなのだと主張する者もいる。つまり彼の痛めつけられた誇りは、幼にして早くも現れ、しだいに増してゆく人間どもの邪悪さの証拠をまざまざとそこにみせるのだ。そのあだ名こそは、吸血鬼。ああ、お母さん、ぼく、怖い」

という一節に接して、「これは子供の頃観た、私の見世物幻想ではないだろうか」と思っていた日々がなつかしい。しかし、近頃劇場に芝居やショウを観にいっても「かわいそうなのは、この子でございます」式の見世物の伝統はうすれ、いたずらに、「しっかりものの世直し思想」ばかりが支配しているような印象をうける。
どうやら芝居は「見られるもの」から「見せるもの」へと交代するときに、一番大切なものを失ってしまったような気がするのである。「奇異珍事録」(木室卯雲)などを読むと「奇獣をとらえた力持ち、米俵を持って曲をなした力婦や人間大砲」のことが面白おかしく書いてあるが、現在のヒーローやヒロインは、そうしたロマネスクとは縁遠い「なやまる現代人」ばかりで、ちっとも夢への渇きをいやしてくれないのである。男装劇の「宝塚」、女装劇の「歌舞伎」には、わずかにそうした名残りを見て取れるが、大半のものは、とくに新劇は、あまりにもみすぼらしい。
そこで私は、自分で見世物の復権をはたしながら、「見られる見世物」の悲しみを「見せる見世物」のヴァイタリティにうつしかえてみたい、と思うようになった。まず、私のマンションの二階を演劇実験室として改造し、「天井桟敷」と命名して、そこで見世物の研究をはじめようと思った訳である。
(中略)
ただ、「見せる」ということと「見られる」ということは、これは一枚の銅貨の裏と表のようなものであって、俳優たちがどんなに主体的に生きていこうとしても、この全面を十全にあらわすためには、人生の生輪といったものが必要なように思われる。 若くしてナルシズムの旺んな俳優たちは「見せる」ことばかり熱中して、そこに存在していない世界の中に耽溺し、見る側からすれば何一つ「見えていない」といったことになってしまうことさえある。若い俳優の自意識が、ときにまったく上げ底の人間しか演じられないのは「見られる」要素を忘れてしまっているからである。だが、老優の「見せる」ことを忘れた被害者的「見られ方」というのも、観客にすれば不愉快なもので「一体何を見せたいのだ」と声をあげたくなることさえある。「かわいそうなのは、この子でござい」とか「親の因果か子に報い」といった見られる思想を、どこまで見せる思想と統合できるかに、私たちのテーマがかかっている訳である。こうして、天井桟敷は出発した。といってもその中味は、私とデザイナーの横尾忠則と早大中退の演出家志望の東由多加、早大生で私と「あなたは」などのテレビ番組を作った高木史子の四人で、あとは家出少年や、フーテンばかりであった。
(中略)
かつて生首娘、熊娘と蟹娘、三人猿(好色畸人見世物談義)が英雄であった時代があり、やがて畸型は消え、コンクリートスマイルの平均的な無性格という新畸型種がはびこるような状況がやってきた。そこでは、平和への願いが生の充足としてではなく、単に「長生き」の問題としてのみしか扱われなくなった。だから血が出たというだけで羽田事件が物議をかもし、「流血」が、無事の暗黒以上の非難を浴びたりするのである。
「生が終わって死がはじまるんじゃないよ。生が終われば死も終わるんだ。死はいつでも生の中に包みこまれているんだから」
これは「天井桟敷」の「花札伝綺」の中の葬儀屋の女房おはかの台詞である。私たちは死をはらまないで生を生かすことは出来はしないだろう。運動の中に於いても、それは自明の理、というものである。「天井桟敷」の幻想の座標軸は、いわばそこを原点として始まっているのである。


 

  

カテゴリー: 1.書籍 | さあさあお立ち会い 天井桟敷紙上公演 怪優奇優侏儒巨人美少女 はコメントを受け付けていません

街に戦場あり

1968年6月5日初版(定価650円)天声出版
装幀:横山明 写真:中平卓馬、森山大道


目次:

  • 街に戦場あり
    家出の抒情/放浪の馬への手紙/友情何するものぞ/見世物よ、もう一度/新宿のロレンス/ジャパン・ドリーム/戦士の休息/親指無宿たち/怒りを我らに/エロダクション交響楽/肉体なればこそ/歩兵の思想/ああ歌謡曲/喜劇・百万長者/銃/暁に祈る/盗聴器の慰め/エレベーターの第三の男/カタロウパの贈りもの/さらば、アメリカ/シイジアムビ・ソンケ
  • 勇者の故郷
    第一の歌 荒野の呼び声/第二の歌 遙かなる騎手/第三の歌 ロンググッドバイ
    第四の歌 ローストメロディ/第五の歌 カタロニア/第六の歌 ダンサー
    第七の歌 間奏曲/第八の歌 江梨子/第九の歌 逃亡/第十の歌 クリスマスの犯罪
    第十一の歌 メロス/第十二の歌 パドック/第十三の歌 ミカズキ

(あとがきなし)


家出の抒情

近頃また、上の駅へ行くことが多くなった。私の論文「家出のすすめ」を読んで上京した家出少年少女たちが私に身上相談の電話をかけてくるからである。だが、私は彼らに「すぐ帰りなさい」ということはでいない。風呂敷包みと啄木歌集、それに一本のコーモリ傘を持った彼等は、
十年前のある日の、私自身のポートレートでもあるのである。

カテゴリー: 1.書籍 | 街に戦場あり はコメントを受け付けていません