「実験映画」フィルモグラフィー

「檻囚」1962年撮影(11分)
・・・・・・寺山修司が少年時代から映画を作りたいと思い続けて、はじめて実現した映画がこの作品である。実験映画の走りと言ってもまた、寺山修司のなかで映写行為を含むコンセプトがなかった時代のものである。


 

「トマトケチャップ皇帝」1971年(75分)
・・・・・・私たちはこの作品の主人公の一人の血諫何権力者の肖像を「トマトケチャップ皇帝」と命名した。シチュエーションはまずある日突然、宿題をたらないということで父親に殴られた子どもが、いつもなら泣いて机に向かうところを、その日に限って振り向きざま父親を刺殺した、あるいは殴り殺したと設定した。それを合図に国中の抑圧に耐え、管理家庭に服従していた子どもたちが一斉に蜂起しはじめた。もうがまんがならない、権力の押しつけはごめんだ。すべての親たちは「大人狩り」の対象にするべきだ。


 

「ジャンケン戦争」1971年(12分)
・・・・・・この映画は因果律による反復ではなく、ジャンケンという遊戯によって、一つの状況が永久反復してゆくことを意図した作品である。あらわれる人間は、皇帝と将軍、すなわちふたりの権力者がジャンケンをして、勝った方が負けた方を罰するという条件を作る。そして処罰されたあとまた、二人はジャンケンをして、きわめて不条理でしかも不毛な、くり返しをえんえんとくり返すわけである。長い場面を二人の俳優にコードネームをだけを与えてあとは即興的に演じてもらった場面である。


 

「蝶服記」1974年(12分)
・・・・・・かすかに欲情した少年の眼帯から少しずつ死んだ蝶がはみ出してきて「視野をさえぎってゆく。その少年を演じているのは作者の私自身である。三八才の私が半ズボンをはいて少年に戻っている。そこまでを、一つの「記憶の」映像化、思い出の精神分析化として扱った。通常の映画として撮影したわけである。そして次に、その映像をプロジェクトして、スクリーンにとどくまでのあいだに、さえぎる行為を介在させたのである。客は少年の映画を観ているのだが、その中間で手が映画をさえぎったり、影がゆっくりプロジェクターの前に立ちふさがったりするのである。


 

「ローラ」1974年(9分)
・・・・・・これは、映画館と観客とスクリーンのなかの俳優たち、つまり実在している人たちと、光影でできている幻の人物たちという異次元の人物の交流を意図しようとしたものである。いままで、スクリーンのなかは禁じられた聖域として、観客と別世界に生きてきたわけであるが、ここでは、観客がスクリーンのなかへ入ったりできるのである。つまり、スクリーンのなかが、手で触れられる世界であることを実現してみせる映画ということで、いささか作為が先立つものだった。


 

「青少年のための映画入門」1974年(3分)
・・・・・・作者の実験映画の中では最も短い映画である。レコードのシングル版の片面分、三分しか上映時間のないこの作品は、第一回100フィート・フィルム・フェスティバルのために撮影され、三台の映写機により、三つのスクリーンにそれぞれ違ったイメージが投影される。イギリスのエジンバラ国際映画祭、スペインのペナルマデナ映画祭などn上映会のオープニングを飾ったが、80年土の香港国際映画祭では不道徳すぎるということでプログラムからはずされ、滅多に目にふれることのできない作品となってしまった。


 

「迷宮譚」1975年(15分)
・・・・・・これはドアの映画である。この映画のなかでは、ドアの向こうの世界が無限に変わっていったり、映画自体がドアに映っていたりするのである。以前から私は、スクリーンは白い四角な布ではなく、ドアだと考えていた。開閉が自在のスクリーンは、釘を打ち込むことも、鍵をかけることも可能であり、同時に世界の出入り口をも暗示する。映写機論、映写機とスクリーンの距離論、そして映されるスクリーン等を一括して、一つの「映写行為が成り立つ」という前提から、この映画はつくられたわけである。


 

「疱瘡譚」1975年(31分)
・・・・・・イメージを皮膚の一面としてとらえようとした実験映画である。ここでは、包帯でまかれた少年の額のアップと、スクリーンを横切ってゆく一匹の蝸牛との関係はほとんど「皮膚病の一種」として表出される。私はスクリーンをではなく、イメージを「削る」「割る」「洗う「」などしてみたいと思った。この作品が一つの契機となって、私は再撮影、ビデオ、といった新しい方法意識に目を向けはじめることになったのである。


 

「審判」1975年(34分)
・・・・・・スクリーンのなかでは釘に関する日常的なさまざまなドラマが進行されているが、その外側では、スクリーンに釘を打とうとステージに上がって来る観客らで映像がさえぎられてゆく。同時にスクリーン自体、だんだんと釘の壁と化してゆく。これは、観客の行為によって上映のたびに異なる一回性の「偶然性を内蔵した映画」とも言える。


 

「消しゴム」1977年(20分)
・・・・・・消しゴムという題は、このところしばらく私の頭を去らないもので、偉大な思想も、たかが一個の消しゴムによって世界から消失してしまうことへの好奇心があったわけである。そして、それとともに、消しゴム自身もその思想の長さ分だけ、あるいは字の数、イメージの株、映像の面積分だけ、すり減ってゆく。この映画のなかでは、消しゴム自身の摩滅ということが、別の主題でもあるわけなのである。


 

「マルドロールの歌」1977年(27分)
・・・・・・少年時代から現在までに最も強く影響を受けたと思われるロートレアモンの「マルドロールの歌」の一行のフレーズを選択、解体し、イメージに置き換えてみる。あるいはその文字を水に浸してみる、あるいはその文字のひとつひとつをナイフでえぐりとる、等々のさまざまなイメージのコラージュによって、新しいロートレアモンのための「手術台」をつくりだしてみたかったのである。


 

「一寸法師を記述する試み」1977年(19分)
・・・・・・一寸法師に私自身の幼時性を仮託し、同時に活動写真に対する素朴な好奇心をそのままイメージ化したいと思ったのである。一人の女優、あるいは一つの肉体をイメージし、そのイメージを一寸法師が画面の外側であるいは画面の内側で、縛りあげたり、削ったり、穴をあけたりしてゆく。そのプロセスを映像化してみたいというのが狙いだった。


 

「二頭女・影の映画」1977年(15分)
・・・・・・影によって影を異化し批評していく。そうした意味で不在ということを何かのかたちで思想化してみたいというのが狙いであった。そしてプリントに焼きつけられている影とそいをスクリーンに映写するときに映写機とスクリーンのあいだを何者かが横切ることによって生まれるもうひとつの影を同時に映像のなかに焼きつけることも試みてみた。


「書見機」1977年(22分)
・・・・・・実際、読書するとき、人は目から書物まで30センチ前後というその距離を動かしえない。この距離を寺山修司はひとつの時間の回路として考え、同時にこの距離をさえぎるものをなんらかのかたちでとらえてみるという、このあいだの距離認識からイメージが誘発され、映画「書見機」は誕生したのである。

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われに五月を

1985年5月4日新装初版(定価1500円)思潮社/装幀:森崎偏陸


五月の詩・序詞

きらめく季節に
たれがあの帆を歌ったか
つかのまの僕に
過ぎてゆく時よ


1932年1月、作品社から刊行された記念すべき作品です。短歌研究に投句した「チェホフ祭」(原題:父還せ)が特選になったものの、ネフローゼによって入院。絶対に助からないと宣告されていたのです。稀有な才能を一冊の本も残さずに死なせてはならないと、短歌研究の選者でも あった歌人の中井英夫氏が作品社に働きかけて刊行されました。


 

この「われに五月を」は、寺山修司の3周忌となった1985年、思潮社から新装初版として刊行されました。表紙の写真は、東京・八王子の高尾霊園高乗寺にある寺山修司の墓。デザインは栗津潔。

表紙をめくるとそこには、

五月に咲いた花だったのに
散ったのも五月でした   母

という母・寺山ハツの直筆の追悼文が半透明の薄紙に印刷されています。母の文字の後ろには、療養中に撮影された若き日の寺山修司の写真がまるで母に隠れるように薄紙を通して映ってくるように装丁されています。彼の死後に刊行された書籍の中で、小生がもっとも気に入っている作品です。発行日も寺山修司の命日である 5月4日 となっています。


僕のノート

青年でありたいという気持ちを持続しようとするとき彼のもっとも許しがたい人間は大人になった彼自身であろうという意味のことをアンドレ・ジイドが書いている。
この作品集に収められた作品たちは全て僕の内に棲む僕の青年の所産である。言葉を更えて言えばこの作品集を発行すると同時に僕の内で死んだ一人の青年の葬いの花束とも言っていいだろう。しかし青年は死んだがその意識は僕の内に保たれる。「大人になった僕」を想像することは僕の日日にとってはなるほど最も許しがたく思われたものだ。
だが今では僕はそれを許そうと思う。いや、許すというよりもロムヌーボー「新しい大人」の典型になろうと思うのだ。美しかった日日にこれからの僕の日日を復讐されるような誤ちを犯すまい。
新しいというのは古くならないことではなくて、それの尺度となるのが歴史であることを僕たちは知っている。歴史が精神的にだけではなく、物質的にも体験されるためには生活することが必要である。生活する、ということはラディゲの言を持たずとも生まれたときから始まっているが生活している自分と歴史との関係を知覚できるのはやはり年齢だ。
そしていま僕の年齢は充分である。この作品集をそうした「生活を知覚できずに感傷していた」僕へのわかれとするとともにこれからの僕への出発への勇気としよう。僕は書を捨てて町を出るだろう。ここに入っているのは全部が、僕の十代の作品である。俳句と横書きの詩は高校時代にかいたものだ。
この作品集を出すことについては手伝ってもらった数多くの人たちに感謝したい。晩夏のベンチで反抗について議論し、雨の扉をしめてレコードの音をみつめあった日日に僕はいまふりかえって限りない愛着を覚える。僕の短歌はこの人たちなしには勇気をもつことができなかっただろう。
母をふくめてこれら人々へ、この本を捧げたい。  十二月一日

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戯曲「忘れた領分」

大学生当時、ネフローゼを患い3年間の入院生活を余儀なくされてあいました。死神と戦いつづける中、寺山修司の戯曲第一作である詩劇「忘れた領分」は書かれました。昭和30年、寺山修司が19才の作品。早稲田大学で劇団「ガラスの髭」を組織し、昭和31年5月26日「緑の詩祭」で上演されています。

「寺山修司の戯曲」など彼の軌跡を残した書物の年譜には、この「忘れた領分」が記されていたものの、その内容はベールに包まれていました。彼は生前、幾人かのジャーナリストに「僕の戯曲第一作は詩劇・忘れた領分だよ」と語っていたものの、遺品の中に原稿もコピーも見あたらなかったといいます。ところが1999年、大学時代の友人宅でガリ版刷りの台本が発見されました。
1999年6月、月刊俳句総合誌「俳句現代」6月号は、「寺山修司の俳句、21世紀へ」と題し特集を組みました。そこで初めて「忘れた領分」が公表されました。同年9月、角川春樹事務所は「寺山修司の忘れもの」を発行、「忘れた領分」の他、新聞小説、作詞など未刊作品を収録しています。

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夏美の歌 / 空の種子

君のため一つの声とわれならん失いしし日を歌わんために

空にまく種子選ばんと抱きつつ夏美のなかにわが入りゆく

わが寝台樫の木よりもたかくとべ夏美のなかにわが帰る夜を

夜にいりし他人の空にいくつかの星の歌かきわれら眠らん

空のない窓が夏美のなかにあり小鳥のごとくわれを飛ばしむ

遅れてくる夏美の月日待ちており木の寝台に星あふれしめ

木や草の言葉でわれら愛すときズボンに木漏れ日がたまりおり

青空に谺の上にわれら書かんすべての明日に否と書かんと

滅びつつ秋の地平に照る雲よ涙は愛のためにのみあり

パン焦げるまでのみじかきわが夢は夏美と夜のヨットを馳らす

野に誓いなくともわれら歌いゆけば胸から胸へ草の実はとぶ

木がうたう木の歌みちし夜の野に夏美が蒔きし種子を見にゆく

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往復書簡 友人・山田太一

「はだしの恋唄」(1967年初版)に収録されている「十九才」という日記風のエッセー。早稲田大学時代に、同級生だった脚本家の山田太一との往復書簡をまとめたものです。


十九才

これはぼくと友人の往復書簡である。
友人の名前は山田太一。いまはシナリオライターになって「記念樹」の台本を書いていたりしている。

この手紙のやりとりを始めたとき、ぼくらは十九才と二十才だった。大学の構内で、ぼくらは貧しい時代のアルト。ハイデルベルヒを、書物とレコードと、ほとんど実りのない恋とに熱中しながら過ごしたのだ。しかし、ジュウル・ルナアルではないが、
「幸福とは幸福をさがすことである」のだから、こうした古い手紙のなかに過ぎ去った日を反芻してみるのも、たのしいことの一つかもしれない。

ともかくも、あれから十年たったのである。何もかも終わってしまった。
そして、何一つ終わったものはなかった。
今、ぼくは「人生の時」といったものについて考えながら、ぼにゃりと窓の
外の夕焼けを見つめている。

私はあの日に信じていた
粗い草の上に身を投げすてて
あてなく眼をそそぎながら
秋の空にしづかに迎へるのだと。
立原道造


大学の最初の夏。ぼくは三宮さんという同級生を好きになっていた。そして山田は演劇研究会の弓野さんを好きになっていた。二人とも、最初に恋心だけがあって、相手はあとからやってきた、という感じであった。


山田から寺山へ
ギリシャ語には海という言葉がない、と言うのだ。ギリシャ民族は海と決して離れず、他国を占領しても、海の近くだけで(例えばマルセーユ・ナポリ)奥地を恐れた民族だった。それが海という言葉を持たない。もちろん日本人がパンというフランス語を日本語化しているという意味では持っている。これはどうもおかしいことだという話だ。小林教授はその理由を知っているらしいのだが、言語学の面白さに生徒をひきこませようという気持ちか、言わない。


山田から寺山へ
「好きだって言って断られたら、もうつきあってくれないから・・・それなら言わないで、つき合っているほうがいいもんな」(三島由紀夫「十九才」)

しかし、どっちにしても、何もないまま会わないでお別れだな、と思うと寂しかった。
ノエル・カードの「逢いびき」という戯曲を読んだ。君の部屋にもあったから、読んだと思うけど。あの八五頁の中段から下段にかけて、うまいね。
(ローラ)(殆どささやくように)分かりますわ。(ベルの音が響く)あなたの汽車です。
(アレック)(うつむいて)ええ。
(ローラ)乗りおくれないようにしなければ・・・
(アレック)いや。
(ローラ)(再びおろおろ声で)どうなさったの?
(アレック)(努力して)何でも・・・何でもありません。

片方が強くなると、片方が弱くなり、離れがたい気持ちが、スマートに出ていてうまいと思った。


寺山から山田へ
ある日バーナード・ショーに手紙が来た。

「わたしは豊かな肉体美をもった踊り子です。結婚しましょう。そうするとあなたの頭脳とわたしの肉体で素晴らしい子が生まれますわ」
すかさず彼は返信をしたためて「止しましょう。もし、あなたの頭脳とわたしの肉体をもった子が生まれたら困るからね」

これは、きみへのなぐさめ!


寺山から山田へ
猫と女は呼ばないときにやってくる。メリメはうまいことを言ったね。甘やかしたので自惚れてやがんだな。モンテルランの「若き娘たち」を読んで、ざまあみろ、という気になったが、これはあんまりひどいので、例えば「女は(「あのこと」だけ)」って考え方。それなのに「あのこと」を知らないで僕が女を書こうなんて大しれていてそれだけ書き甲斐はあるが、実際上、女を扱えないわけだと思った。「若き娘たち」って変だね。娘はみんな若いよね。


寺山から山田へ
「男が愛し終わると女が愛し始める」ってモンテルランが言っているけど愛はそれ自体、目的には(少なくとも僕たちには)なり得ないと思うから、目的にしようとする女の慎重さに男が嫌気をさすのは当然なり。

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